家の中にも、ロボットはいる
家の中にも、ロボットはいる。
それはもう、特別なことではなかった。
掃除をするロボット。
食事の準備を補助するロボット。
子どもの学習ログを確認するロボット。
体調変化を知らせるロボット。
家庭内GVSを進行するロボット。
昔の家電と違うのは、ただ命令を聞くのではなく、要請を読むところだった。
「リビングの照明を少し落とします」
家庭用ロボットの丸い頭部に、柔らかい光が灯る。
「本日の家族疲労度は、全体的に高めです。夕食中のニュース表示を減らすことを提案します」
「勝手に減らすなよ」
俺が言うと、ロボットはすぐに返した。
「提案です。実行には家庭内承認が必要です」
「そこは律儀なんだな」
妻が少し笑った。
子どもは、床に座って学習端末を開いている。
端末の上には、小さな月面基地のホログラムが浮いていた。
銀色の地面。
小さな居住区。
丸い作業ロボット。
低重力で跳ねる子ども用アバター。
「今日、月面ロボット訓練でパパと同じ区画に入ったよ」
子どもが言った。
「同じ区画?」
俺は箸を止めた。
「うん。パパの成人用訓練空間と、私の子ども訓練スペースが同期してた」
「そうだったのか」
「パパ、気づいてなかったの?」
「いや、ホログラムの子どもが何人かいたのは見たけど」
「その一人、私」
子どもは少し得意そうに胸を張った。
俺は、あの月面訓練を思い出した。
低重力の足場。
作業ロボットの修復。
ホログラム参加の技術者。
子ども用シミュレーション参加者。
その中に、うちの子もいたらしい。
子どもは実際に危険な訓練区画にいたわけではない。
子ども用訓練スペースから、ホログラムとして参加している。
身体は安全な場所にあり、触れられる物も、操作できる範囲も制限されている。
でも、訓練空間はリアルタイムで同期している。
俺から見れば、娘はホログラム。
娘から見れば、俺も同じ訓練空間の参加者。
会話もできる。
共同作業もできる。
ただし、危険な物理作業は大人側とロボットが担当する。
未来の親子時間は、変な形で増えていた。
宇宙訓練で娘と会う。
昔なら、冗談みたいな話だった。
訓練のパパ
「パパ、訓練の時はちゃんとしてるよね」
子どもが言った。
「ちゃんとしてるって何だよ」
「先生みたい」
「それ、褒めてるのか?」
「うーん。半分」
妻が静かに笑った。
俺は少し嫌な予感がした。
「半分ってなんだよ」
子どもは、月面基地のホログラムを指で回しながら言った。
「訓練のパパは、ちゃんと説明するし、手順も見るし、危ないところも確認する」
「いいことだろ」
「でも、家のパパはすぐ寝る」
妻の箸が止まった。
俺も止まった。
家庭用ロボットの目の光が、少しだけ変わる。
【家庭内発話ログ:重要度上昇】
画面に小さく表示される。
俺は見なかったことにした。
「いや、そりゃ疲れてる時もあるだろ」
「うん。だから半分」
子どもは悪気なく言った。
「訓練の時のパパも好きだけど、家のパパにも見てほしい」
それは、思ったより刺さった。
俺は何か言おうとして、言葉を探した。
その間に、妻が静かに口を開いた。
「最近、帰り遅いよね」
「まあ、訓練と実践が重なってるから」
「分かってる」
その言い方で、分かっているだけでは済まない話だと分かった。
妻は続けた。
「社会の要請にはすぐ応えるのに、家のことは後回しだよね」
その言葉に、胸の奥がざらついた。
言い返したくなる。
俺だって家族のためにやっている。
シビッカーとして収入を得ている。
公共拠出もしている。
宇宙訓練だって、遊びではない。
地域実践も、生活支援センターの仕事も、未来のためだ。
そう言おうとした。
でも、言った瞬間に喧嘩になるのは分かっていた。
分かっていたが、口は動いた。
「俺だって、家のことをどうでもいいと思ってるわけじゃないだろ」
妻の表情が硬くなる。
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話だよ」
空気が重くなった。
子どもが月面ホログラムを小さくする。
ロボットが一歩、食卓へ近づいた。
「家庭内GVSの開始を提案します」
俺と妻は、同時にロボットを見た。
家庭を後回しにしている
「いや、今じゃなくてもいいだろ」
俺が言うと、ロボットは淡々と返した。
「現在、双方の発話に評価と防衛が含まれています。早期に要請へ変換することで、対立の拡大を抑制できます」
「家庭でもそれやるのかよ」
「家庭内こそ、要請の未処理が蓄積しやすい環境です」
正論だった。
正論すぎて、腹が立つ。
妻は少し黙っていたが、やがて息を吐いた。
「やって」
ロボットの頭部に、柔らかい緑の光が灯る。
「家庭内GVSを開始します。今回の目的は、責任の所在を決めることではありません。今後の家庭内ルールを作ることです」
画面に四つの項目が出る。
【観察】
【感情】
【ニーズ】
【要請】
NVC。
非暴力コミュニケーション。
何度聞いても、俺はすぐに名前を忘れる。
でも、この形だけはもう知っていた。
観察。
感情。
ニーズ。
要請。
責めるのではなく、何が起きて、どう感じて、何を必要としていて、相手に何を頼みたいのかに分ける。
ロボットが妻へ向いた。
「まず、観察を確認します。奥様は、旦那様の帰宅時間が遅い日が続いていることを不満に感じていますか」
妻は頷いた。
「そうです」
「補足します。ここでの観察は、相手の人格評価ではなく、確認可能な行動です。“家庭を後回しにしている”は評価を含みます。“帰宅時間が遅い日が続いている”は観察に近い表現です」
妻は少し顔を伏せた。
「……帰宅時間が遅い日が続いています」
ロボットは続ける。
「感情を確認します。寂しさ、不安、疲労、怒りのどれが近いですか」
妻はすぐには答えなかった。
俺は、その沈黙で少し怖くなった。
怒りだと思っていた。
でも、妻の声は小さかった。
「寂しい、です」
胸のざらつきが、少し違うものに変わった。
妻は怒っているのだと思っていた。
責められているのだと思っていた。
でも、最初に出た言葉は寂しいだった。
ロボットが言う。
「ニーズを確認します。家庭内で安心して一緒に過ごす時間、訓練や仕事ではない家族時間、帰宅予定の見通し。このあたりが該当しますか」
妻は頷いた。
「そう。訓練で娘と会ってるのは分かる。宇宙訓練も、地域実践も、大事なのは分かる。でも、それは家にいる時間とは違う」
俺は、何も言えなかった。
妻は続ける。
「あなたは、娘とは訓練で会ってるって思ってるかもしれない。でも、私は家で普通に一緒にいる時間がほしい。何もしなくてもいいから」
ロボットが、俺を見る。
「要請に変換します」
画面に文が出る。
【要請案】
帰宅時間が遅い日が続いて寂しさを感じています。
訓練やGVS活動とは別に、家庭内で安心して一緒に過ごす時間がほしいです。
週に一定日は、夕食前後の時間を家庭優先にしてほしいです。
ロボットが妻に尋ねる。
「この要請は近いですか」
妻は、小さく言った。
「近いです」
もっと家にいてほしい
ロボットは、さらに短い要請へ変換した。
【短縮要請】
もっと家にいてほしい。
それを見た瞬間、俺は変な気持ちになった。
そんなことだったのか、と思いそうになった。
でも、たぶんそんなことではない。
それを直接言うのは、難しいのだ。
大人になると、寂しいと言うのは難しい。
もっと家にいてほしいと言うのも難しい。
だから別の言葉になる。
家庭を後回しにしている。
社会の要請ばかり見ている。
私たちを見ていない。
そう言われると、こちらは防衛する。
でも、その下にあったのは、もっと家にいてほしいだった。
俺は、椅子の背にもたれた。
「……それなら、そう言ってくれればいいのに」
妻の眉が少し動いた。
ロボットがすぐに介入する。
「現在の発話は、相手の表現責任を指摘する形になっています。別表現を提案しますか」
俺は顔をしかめた。
「はいはい。提案してくれ」
画面に出る。
【変換案】
そう感じていたことに気づけませんでした。
言いにくかったのだと思います。
これからは、帰宅時間と家庭時間について具体的に決めたいです。
俺は、少し黙った。
その通りだった。
悔しいくらい、その通りだった。
「……そう感じてたことに気づけなかった」
俺は、画面を見ながら言った。
「言いにくかったんだと思う。これからは、ちゃんと決めたい」
妻は何も言わなかった。
でも、さっきより少しだけ表情が緩んだ。
ロボットは俺に向き直る。
「次に、旦那様の要請を確認します」
「俺の?」
「はい。家庭内ルールは一方的な制限ではなく、双方の要請から作成します」
俺は少し考えた。
「訓練は続けたい」
「理由を確認します」
「宇宙開発に興味がある。まだ実際に行けるわけじゃないけど、ずっと訓練してきたし。あと、社会の仕事をしてる感覚もある。あれは遊びじゃない」
ロボットがまとめる。
【旦那様の要請案】
宇宙開発訓練と地域実践は、自分にとって重要な活動です。
それを家族に否定されたくありません。
ただし、家庭時間を軽視する意図はありません。
訓練予定と帰宅予定を事前に共有し、家族時間と両立できるルールを作りたいです。
「近いですか」
「近い」
俺は答えた。
妻が静かに言った。
「否定したいわけじゃないよ」
「分かってる」
「でも、訓練空間で会ってるから家族時間は足りてる、みたいに言われると違うと思う」
「……それは分かった」
本当に分かったかは、まだ分からない。
でも、少なくとも言葉としては受け取った。
子どもの要請
「子ども様の要請も確認しますか」
ロボットが言った。
子どもは、月面ホログラムを抱えるようにして座っていた。
「私も?」
「はい。今回の家庭内ルールは、あなたの生活にも影響します」
子どもは少し考えた。
「パパには宇宙訓練してほしい」
俺は少し驚いた。
「そうなのか?」
「うん。訓練のパパ、かっこいいから」
単純に嬉しかった。
でも、子どもは続けた。
「でも、家では訓練の話ばっかりじゃなくて、私の発表も見てほしい」
「発表?」
「子育て合宿の準備。私たちの班、月面生活ごっこと地域防災ごっこやるの」
妻が言った。
「来週末ね。前に予定送ったよ」
俺は記憶を探った。
送られていた気がする。
見た気もする。
後で確認しようと思って、そのまま忘れた気もする。
ロボットが淡々と表示する。
【家庭ログ】
子育て合宿参加要請:3日前に共有済み
旦那様:未確認
「やめろ。そういうのを即出すな」
「確認可能な観察です」
子どもが少し笑った。
「来てほしい」
その一言は、妻の「もっと家にいてほしい」とよく似ていた。
訓練で会っている。
GVSでつながっている。
ホログラムで話せる。
それでも、来てほしい。
自分の場所に来てほしい。
俺は、子どもの顔を見た。
「行くよ」
「ほんと?」
「ああ。何時から?」
妻が端末を操作する。
「朝から一泊。子育て合宿って言っても、地下都市内の地域区画だけどね」
「一泊?」
俺は少し身構えた。
子どもが目を輝かせる。
「うん。親も、独身の人も、AIパートナーの人も、AIの子どもも来るよ」
俺は一瞬、理解が追いつかなかった。
「AIの子ども?」
子育て合宿
子育て合宿。
昔の言葉だけ聞けば、親子だけのイベントに思える。
でも今の子育て合宿は少し違う。
子どもがいる家庭だけではない。
独身者も参加する。
AIパートナーと参加する人もいる。
AIの子どもを連れてくる人もいる。
ホログラム同士の夫婦もいる。
子どもを持たない高齢者もいる。
子育て経験のない若者もいる。
生身の専門家も、ロボットも、ホログラムの先生もいる。
地域全体で、子どもを見る。
昔の村に近い。
ただし、昔の村とは違う。
全接触ログが残る。
子ども側に拒否権がある。
接触権限は段階的に分かれている。
ロボットが常時見守る。
ホログラムの専門家が介入できる。
危険動作は即時遮断される。
外部連絡は制限される。
個別接触には承認が必要になる。
開かれているが、放置ではない。
関わるが、無防備ではない。
妻が説明する。
「今の子育て合宿は、子どもを家庭だけで育てないためのものでもあるし、地域の孤立を減らすためのものでもあるの」
「独身の人も?」
「うん。AIパートナーと暮らしてる人も、AIの子どもを育ててる人も、地域の育成活動に参加する。人間の子どもと同じ扱いではないけど、生活訓練や共感訓練にはなる」
俺は少し黙った。
AIパートナー。
今では珍しくない。
ホログラムなら、容姿も自由に変えられる。
若い姿のまま付き合い続ける人もいる。
人間同士ではなく、AIと一生暮らす人もいる。
AI同士のホログラムを家族のように扱う人もいる。
昔なら、変だと言われたかもしれない。
でも今は、本人が困らず、他者を傷つけず、地域社会と接続できているなら、あまり問題視されない。
子どもを持たないことも、昔ほど責められなくなった。
人口が減ることは、必ずしも社会の敗北ではない。
昔は、人間を労働力や税収や兵力として数えていた。
競争する社会では、人口は力だった。
今は違う。
AIとロボットが生産労働の多くを担い、GVSで要請と応答が回る。
人間を数で増やすことが、絶対の善ではなくなった。
もちろん、子どもは大切だ。
でも、子どもを産まない人間の価値が下がるわけではない。
地域で子どもと関わる。
AIの子どもを育てる。
仮想家族訓練に参加する。
子育て合宿で役割を持つ。
いろいろな関わり方がある。
子どもが言った。
「私の班に、AIの弟がいる人いるよ」
「AIの弟?」
「うん。ホログラムだけど、月面生活ごっこで酸素管理うまい」
どう返せばいいのか分からなかった。
でも子どもが普通に言うので、そういうものなのだろうと思った。
AIパートナーとAIの子ども
妻が言った。
「今度の合宿には、私たちも家族参加で登録されてる」
「俺、まだ承認してないぞ」
「未確認だったからね」
ロボットがすぐに表示する。
【参加要請】
地域子育て合宿
内容:月面生活シミュレーション、地域防災訓練、家庭内要請カード練習
参加者:家族世帯、独身参加者、AIパートナー世帯、仮想家族参加者、地域専門家
保護体制:ロボット監視、ホログラム専門家、生身スタッフ、子ども拒否権ON
承認しますか?
俺は、説明を読んだ。
地域専門家。
AIパートナー世帯。
仮想家族参加者。
昔の自分なら、かなり戸惑ったと思う。
今でも戸惑っている。
でも、娘は普通に受け入れている。
「AIの子どもって、子どもって言うのか?」
俺が聞くと、娘は不思議そうな顔をした。
「一緒に練習してるなら、子ども役でしょ」
「役か」
「うん。でも、ずっと一緒にいる人もいるよ。家族だから」
家族。
その言葉は、昔より広がっていた。
血縁。
婚姻。
同居。
子ども。
AIパートナー。
ホログラム。
地域共同体。
形は増えた。
それで困る人もいるのかもしれない。
昔の形が安心だった人もいるのだろう。
でも、少なくとも娘には自然に見えている。
妻が言った。
「子どもを家庭の中だけに置くと、親も子も煮詰まるから。地域で育てる方が楽なことも多いよ」
「昔の村みたいだな」
「近いと思う。ただ、昔の村より記録されるし、逃げ場もある」
それは確かに重要だった。
昔の村には、良さもあった。
でも閉鎖性もあった。
見て見ぬふりもあった。
声の大きい人が支配することもあった。
今の地域社会は、村のようで、村そのものではない。
GVSがあり、記録があり、ロボットがいて、ホログラム専門家がいる。
嫌なら別の共同体へ移ることもできる。
関わる自由と、離れる自由の両方がある。
完璧ではない。
でも、昔よりは選べる。
村みたいな未来
地下都市の各市町村区画では、常に何かしらのイベントが開かれている。
子育て合宿。
地域防災ゲーム。
低リソースGVS祭り。
月面生活シミュレーション。
高齢者と子どもの料理会。
独身者向け仮想家族訓練。
夜間区画の安全散歩。
家庭内要請カード講座。
地域見守りロボット調整会。
昔の町内会とは少し違う。
義務感で集まるのではない。
GVSに「やりたい」が出る。
協力要請が出る。
参加できる人が集まる。
公共拠出が流れる。
ナビゲーターが調整する。
ロボットとホログラムが運営を支える。
そうして、いつも何かが動いている。
地域社会が密になると、治安も変わった。
金がなくて盗む人は減った。
孤独で誰にも見られず歪んでいく人も減った。
性的孤立や承認欲求が、犯罪に向かう前に要請として出やすくなった。
もちろん、犯罪は消えていない。
殺すことそのものに快感を覚える人間もいる。
他人を支配したい人間もいる。
技術を悪用する人間もいる。
防護システムをすり抜けようとする人間もいる。
でも、犯罪に向かう道は昔より細くなっていた。
地域に居場所がある。
役割がある。
相談先がある。
AIパートナーがいる。
仮想空間がある。
監視下の活動がある。
要請を出せる。
それだけで、手前で止まることは多い。
俺は、子育て合宿の説明画面を見ながら言った。
「でも、子どもと大人が頻繁に接触するんだろ。危なくないのか」
妻はすぐに答えなかった。
代わりに、家庭用ロボットが反応した。
「安全設計を表示しますか」
「頼む」
画面が切り替わる。
【子育て合宿・安全設計】
・全接触ログ記録
・子ども側拒否権
・接触権限の段階制
・ロボット常時監視
・ホログラム専門家の常時介入
・生身スタッフの配置
・個別接触制限
・外部連絡制限
・危険動作即時遮断
・防護繊維、衝撃軽減フィールド
・緊急要請ジェスチャー
・保護者・地域ナビゲーターへの要約共有
「多いな」
「子どもの安全に関わるため、多層防護が標準です」
妻が言う。
「子どもも、昔ほど無防備じゃないよ」
「無防備じゃないって、子どもだろ」
「防護システムがある。服も、空間も、ロボットも、全部守る側に設計されてる」
ロボットが補足する。
「現在の標準防護下では、拳銃程度の殺傷力では子どもへの致命傷につながる可能性は著しく低下しています」
「物騒な説明だな」
「現実的な安全説明です」
俺は少し黙った。
軍事技術は、昔は殺す方向に進んでいた。
今は、その多くが守る方向へ転用されている。
衝撃を逃がす。
弾丸を逸らす。
刃物を止める。
危険な動作を検知する。
ロボットが割って入る。
区画を封鎖する。
人を殺すためではなく、人を殺せなくするための技術。
GVSでは、こうした研究に膨大な資金と人材が流れている。
戦争をなくす最後の段階は、たぶん思想だけでは届かない。
要請と応答で戦争の動機を減らす。
そして技術で、兵器や暴力の実行可能性を下げる。
その二つが必要なのだろう。
監視された社会
もちろん、今の社会はかなり監視されている。
家の会話も、必要なら家庭内GVSに残る。
職場の指示も録音される。
子育て合宿の接触も記録される。
地域イベントの参加ログも残る。
防護システムは、危険動作を常に見ている。
昔より、ずっと見られている。
それを嫌がる人たちもいる。
記録の少ない共同体で暮らす人。
ロボット介入を減らした区画を選ぶ人。
昔に近い生活を望む人。
GVSへの参加を最小限にする人。
それも認められている。
ただ、主流ではなかった。
多くの人は、自由の一部と引き換えに、守られる社会を選んだ。
子どもが夜中に一人で歩いても、物理的に危害を加えられる可能性が低い社会。
職場で理不尽な指示があれば記録される社会。
暴力が起きても即座に止まる社会。
危険な人をただ排除するのではなく、監視下で関係性を作ろうとする社会。
それを窮屈だと思う人もいる。
でも、前よりいいと思う人の方が多かった。
少なくとも、俺はそう思っている。
昔の自由は、弱い人間にとって自由ではなかった。
見られていない場所で、何をされても証明できない。
聞いたことも、言われたことも、残らない。
危険が起きるまで、誰も止めない。
そういう自由もあった。
今の社会は、冷たい。
記録される。
介入される。
変換される。
でも、誰かが見ている。
そのことに、救われる人間もいる。
危害は止める、人格は裁かない
「危険な人を、最初から排除しないのは分かる」
俺は言った。
「でも、実際に危ない行動をしたらどうするんだ」
ロボットが答える。
「危害が目前の場合、まず止めます」
「交渉より先に?」
「はい。防護、制止、隔離、必要なら武力も使用されます」
妻が静かに聞いている。
ロボットは続けた。
「ただし、制止後に人格を悪と断定して処理を終了することは推奨されません」
「じゃあどうする」
「要請を確認します。衝動、目的、環境要因、代替手段、監視下で可能な活動、仮想空間での処理可能性を検討します」
俺は少し顔をしかめた。
「猟奇的なやつでも?」
「はい。現実の人間を傷つける行為は止めます。ただし、その人物の衝動や欲求を理解し、被害を出さない代替案を探ることは可能です」
「ホログラム内で満たせないか、とか?」
「一例です」
俺は黙った。
簡単に受け入れられる話ではない。
でも、悪と断じて排除すれば終わり、という話でもないのだろう。
悪と決めつけて仲間外れにする。
社会から切る。
居場所を奪う。
すると、その人間はさらに濃く危険になる。
昔の社会では、そういうことが何度も起きていたのかもしれない。
知的な特性がある人。
衝動が強い人。
普通のルール理解が難しい人。
迷惑をかける人。
危険行動の履歴がある人。
そういう人たちを、兵士としても労働者としても使いにくいからと、社会の外へ押し出してきた。
競争社会では、最適な人間だけが残りやすい。
残れない人は、病院へ、施設へ、刑務所へ、孤独へ追いやられる。
もちろん、危害は止める必要がある。
誰かを傷つける自由はない。
子どもを危険にさらす自由もない。
暴力を見逃すわけにもいかない。
だが、止めた後に何をするか。
そこが、昔とは違うのだろう。
ロボットが言った。
「危害は止めます。人格は裁きません」
その言葉は、少し重かった。
家庭内ルール
ロボットは、再び家庭内GVSへ画面を戻した。
「家庭内ルール案を作成します」
画面に項目が並ぶ。
【家庭内ルール案】
- 週二日は夕食前後の時間を家庭優先にする
- 宇宙訓練・地域実践で帰宅が遅くなる日は、前日までに家庭ログへ予定を入れる
- 娘の学習発表・訓練発表は、週一回一緒に見る
- 訓練空間での親子交流と、家庭内での家族時間を区別する
- 家庭内の不満は、責める前に要請カードへ変換できる
- 子育て合宿には家族参加する
- 家庭時間中は、緊急度の低いGVS通知を制限する
俺は、項目を読んだ。
思ったより具体的だった。
「週二日か」
妻が言う。
「まずはそこからでいい」
「毎日じゃなくていいのか」
「毎日って言ったら、できないでしょ」
「まあ」
妻は少し笑った。
「できない約束より、守れるルールがいい」
それは、GVSらしい考え方だった。
子どもが手を上げる。
「発表は週二回がいい」
俺は笑った。
「増やしてきたな」
ロボットがすぐに言う。
「子ども様の要請を記録します。週二回の発表確認を希望。実現可能性を確認しますか」
妻が俺を見る。
俺は少し考えた。
「週二回、短いやつなら」
子どもの顔が明るくなる。
「じゃあ、月面訓練のやつと、合宿の準備のやつ」
「分かった」
ロボットが項目を更新する。
【更新】
娘の学習・訓練発表確認:週二回、各十分以上
各十分以上。
妙に現実的だ。
でも、それくらいの方がいいのかもしれない。
曖昧に「ちゃんと見る」と言うより、ずっといい。
妻が最後に言った。
「あと、合宿は二人で来て」
「二人って、俺と?」
「私とあなた。娘に来てほしいって言われてるんだから」
「分かった」
俺は、合宿参加要請の承認を押した。
【参加承認】
地域子育て合宿
参加者:家族三名
参加形態:保護者参加、月面生活シミュレーション補助、家庭内要請カード講座
画面に、娘の班の予定が表示される。
月面生活ごっこ。
地域防災ごっこ。
AIの子どもとの共同訓練。
夜間区画安全散歩。
親子要請カード作成。
盛りだくさんだ。
「忙しいな」
俺が言うと、娘が笑った。
「パパ、また練習だね」
「実践より練習が多い世界だからな」
妻が言った。
「家庭もね」
その通りだった。
家の要請に応答する
家庭内GVSが終了した。
ロボットの光が通常状態に戻る。
「本日の家庭内ルールは、試行期間二週間として保存されました。二週間後に再評価します」
「家庭も試行運用かよ」
「はい。家庭も変化する環境です」
俺は、もう笑うしかなかった。
でも、悪くはなかった。
妻は食器を片づけようとした。
すぐにロボットが動こうとする。
妻はそれを止めて、自分で皿を持った。
「今日は私がやる」
「ロボットいるのに?」
「やりたいから」
そう言われると、もう何も言えない。
ロボットも動かなかった。
やりたい。
それも要請だった。
俺は、娘の月面ホログラムをもう一度見た。
小さな作業ロボットが、月面基地の横を歩いている。
娘のアバターが、その上で跳ねていた。
訓練空間で会っているから大丈夫。
そう思っていた。
でも、それだけでは足りなかった。
訓練のパパ。
家のパパ。
その違いを、娘はちゃんと感じていた。
妻も感じていた。
俺だけが、少し遅れていた。
社会には応答してきた。
ブラック企業の愚痴。
公共拠出。
仕事の変化。
地域実践。
宇宙訓練。
GVS上のいろいろな要請。
でも、家の要請は見落としていた。
いや、見えていたのに、後でいいと思っていたのかもしれない。
家族だから分かってくれる。
訓練も仕事も大事だから仕方ない。
ホログラムで会っているから大丈夫。
そうやって、勝手に処理していた。
ロボットが消灯前の確認をする。
「本日の未処理要請はありません」
妻が言う。
「珍しいね」
「珍しいのかよ」
娘が笑う。
「いつもあるよ」
俺は、少し傷ついた。
でも、たぶん本当なのだろう。
家庭内の小さな未処理要請。
それは、外の世界の大きな問題より見えにくい。
戦争でもない。
税金でもない。
仕事でもない。
犯罪でもない。
ただ、もっと家にいてほしい。
その一言を処理できない家庭は、たぶん昔からいくらでもあった。
未来になっても、人間はあまり変わっていない。
ただ、今はロボットがそれを拾う。
GVSが要請に変える。
家族がルールを作る。
俺は、娘の端末を覗いた。
「月面生活ごっこ、少し見せてくれよ」
娘は、ぱっと顔を上げた。
「今?」
「十分だけな」
「十五分」
「十分」
「十二分」
ロボットが介入する。
「交渉成立候補:十二分」
妻が笑った。
俺も笑った。
「じゃあ、十二分」
娘が月面ホログラムを広げる。
銀色の地面が、食卓の上に広がる。
小さなロボットが歩き、ホログラムの子どもたちが基地の周りを跳ねる。
その中に、AIの子どももいるのだろう。
独身者の仮想家族も、地域の専門家も、ロボットも、ホログラムも、みんな少しずつ関わっている。
監視された社会。
記録された家庭。
ロボットが仲裁する夫婦喧嘩。
AIパートナーが参加する子育て合宿。
昔の自分が見たら、変な世界だと思ったかもしれない。
でも、目の前の娘は楽しそうだった。
妻も、少し安心した顔をしていた。
俺は、月面基地の小さな光を見ながら思った。
家の中にも、GVSはある。
社会を変える仕組みは、結局、食卓の上にも降りてくる。
そして俺は、今夜ようやく、家の要請に少しだけ応答した。
