統制圏の工作員
イリヤ・クロードは、統制圏の工作員だった。
そう名乗ることに、迷いはなかった。
少なくとも、かつてはそうだった。
統制圏で生まれ、統制圏で育ち、統制圏の教育を受けた。
協力社会は、人類を堕落させる。
GVSは、自由を奪う監視網である。
シビックドライブは、人間をAIに管理させるための甘い言葉である。
そう教えられてきた。
イリヤは、それを信じていた。
いや、信じようとしていた。
信じなければ、生きていけなかった。
統制圏では、誰もが管理されていた。
居住区。
食料配給。
通信権限。
移動許可。
医療アクセス。
教育履歴。
家族関係。
感情ログ。
協力指数。
それらはすべて、統制圏AIによって記録され、評価され、調整される。
反抗は、昔のように銃を持った兵士に見つかるものではなかった。
反抗は、兆候として検出される。
通信の間隔。
食事の残し方。
視線の揺れ。
睡眠の乱れ。
言葉の選び方。
家族への接触頻度。
配給端末の操作時間。
それらが積み重なり、反抗予備値として表示される。
人間の密告者は、もう主役ではない。
統制圏では、人間が裏切る前に、AIが裏切りの可能性を拾う。
だから誰も、簡単には逆らえない。
イリヤも同じだった。
忠誠心はあった。
だが、それだけではない。
妻と息子がいた。
彼らは統制圏の第六居住区にいる。
いや、いると知らされている。
イリヤは、もう何か月も直接会っていない。
画面越しの面会はある。
音声も聞ける。
息子の顔も見える。
けれど、それが本当にリアルタイムなのか、録画なのか、AIが補正した映像なのか、イリヤには分からなかった。
それでも、従うしかない。
命令に従えば、家族の配給権限は維持される。
任務を成功させれば、医療アクセスが延長される。
失敗すれば、家族の居住区ランクは下がる。
裏切れば、家族は処理される。
統制圏は、そういう国だった。
それを国と呼ぶべきか、巨大な管理装置と呼ぶべきか、イリヤには分からない。
ただ、自分はその装置の中で働く歯車だった。
そして、歯車でいる限り、家族は生きている。
そう信じるしかなかった。
子育て合宿区画
任務は単純だった。
シビックドライブ側の子育て合宿区画周辺にある防護ネットワークへ侵入し、軽微な異常を発生させる。
子どもを傷つける必要はない。
むしろ、傷つけてはいけない。
統制圏管理局は、そう説明した。
「目的は殺傷ではない。信頼破壊だ」
上官の声は、AI変換されていた。
顔は見えない。
名前も知らない。
ただ、命令だけが降りてくる。
「GVS社会は、安全を売りにしている。子どもを地域に開き、AIの子どもや仮想家族まで混ぜている」
「そこに不安を生じさせる」
「防護システムは完全ではない。監視社会は危険だ。子どもを守ると言いながら、子どもを実験場にしている」
「そういう世論を作る」
イリヤは、短く答えた。
「了解」
端末に侵入手順が表示される。
防護ネットワークの外縁。
合宿区画の環境制御ログ。
子ども拒否カードの通信経路。
見守りロボットの位置情報。
ホログラム専門家の介入権限。
侵入は、深部まで行う必要はない。
わずかな遅延。
わずかな表示乱れ。
わずかな警告の誤作動。
それで十分だった。
あとは統制圏の情報網が、そこから物語を作る。
「GVS社会で子どもが危険にさらされた」
「AIの子どもと人間の子どもを混ぜる実験が失敗」
「監視社会は子どもを守れない」
「家庭から子どもを奪う地域GVS」
そういう言葉が、外部ネットワークに流れる。
戦争は、もうミサイルだけで始まらない。
信頼を壊す。
不安を増やす。
疑いを植える。
協力社会の結び目をほどく。
それが、統制圏の戦争だった。
イリヤは、遠隔侵入用の端末に手を置いた。
画面には、合宿区画の映像が映っている。
子どもたちが走っている。
親が笑っている。
ロボットが見守っている。
ホログラムのAIの子どもが、月面生活ごっこに参加している。
奇妙な光景だった。
統制圏では、そんな場所はない。
子どもは、管理される。
親は、評価される。
教育は、忠誠を作るためにある。
だが画面の向こうでは、子どもが拒否カードを持っている。
大人に対しても、ロボットに対しても、近づかないでくださいと言える。
イリヤは、少しだけ指を止めた。
息子が、もしここにいたら。
そう考えかけて、すぐに消した。
任務中に余計な想像をするな。
彼は、侵入を開始した。
捕獲
失敗は、予想より早かった。
侵入開始から八秒後。
端末の画面に、見慣れない表示が出た。
【要請外アクセスを検出】
イリヤは、すぐに接続を切ろうとした。
切れない。
次の瞬間、端末が白く光った。
通信経路が逆流する。
防護ネットワークは、攻撃を受け流すのではなく、包み込むように侵入元を特定してきた。
「遮断」
イリヤは手動回線を切った。
遅かった。
部屋のドアが閉じる。
照明が変わる。
自分の隠れ家だと思っていた部屋の壁に、薄い光の線が入った。
外からではない。
内部に仕込まれていた防護装置が起動している。
イリヤは、腰の武器へ手を伸ばした。
だが、指が届く前に、床から透明な拘束フィールドが立ち上がった。
体が動かない。
息はできる。
目も動く。
だが、腕も足も動かない。
天井の一部が開き、小型ドローンが降りてきた。
武装ドローンではない。
少なくとも、殺傷用には見えない。
その後ろに、ホログラムが現れた。
女とも男とも判別しづらい、中性的な姿。
シビックナビゲーターか、治安ナビゲーターか。
ホログラムは言った。
「工作行為を確認しました。通信を遮断します。あなたの移動を制限します」
イリヤは笑った。
「監視社会らしいな」
ホログラムは表情を変えない。
「はい。現在、あなたは監視下にあります」
素直に認めた。
そのことに、イリヤは一瞬だけ言葉を失った。
ホログラムは続ける。
「ただし、あなたの人格評価は行いません」
「何?」
「行為は止めます。危害の可能性は遮断します。その上で、要請確認を行います」
イリヤは、思わず怒鳴った。
「俺は敵だぞ」
「はい」
「子どもたちの防護ネットワークに侵入した」
「はい」
「なら処理しろ。尋問しろ。お前たちの言う監視社会なら、そうするだろ」
ホログラムは、わずかに首を傾けた。
「敵であることと、要請があることは矛盾しません」
イリヤは黙った。
その言葉は、意味が分からなかった。
敵にも要請がある。
馬鹿げている。
統制圏なら、敵は敵だ。
反逆者は反逆者だ。
処理対象は処理対象だ。
そこに要請などない。
あるのは、命令と服従だけだ。
敵にも、要請はある
拘束されたまま、イリヤは別の区画へ移された。
部屋は白かった。
拷問室ではない。
尋問室にも見えない。
椅子があり、机があり、壁にGVSの画面がある。
拘束は解かれない。
通信も遮断されたままだ。
体内に仕込んだ自壊用の毒素も、すでに無効化されていた。
甘くはない。
ただ、痛みは与えられなかった。
ホログラムのナビゲーターが正面に立つ。
「あなたの行為は記録されました」
「知っている」
「子育て合宿区画への侵入は、危険行為です」
「知っている」
「ただし、現時点で子どもへの被害はありません」
「失敗したからな」
「はい。失敗しました」
その言い方に、イリヤは少し苛立った。
ホログラムは続ける。
「要請確認を行います。あなたは、なぜこの工作を行いましたか」
「統制圏のためだ」
「統制圏への忠誠が動機ですか」
「そうだ」
「他に動機はありますか」
「ない」
画面に、イリヤの心拍、呼吸、発話間隔が表示される。
評価されている。
だが、点数はつかない。
嘘発見ではない。
断罪ではない。
揺れを見ている。
ホログラムが言う。
「家族に関する要請はありますか」
イリヤの喉が止まった。
「……何を」
「あなたの通信履歴、暗号化メモリ、統制圏側の人質管理形式から推定しています。あなたの家族が統制圏内で管理対象になっている可能性があります」
「黙れ」
「確認します。あなたは、家族を守るために工作を行っていますか」
「黙れと言った」
声が荒くなる。
拘束フィールドが、わずかに強くなる。
だが痛くはない。
ホログラムは、同じ声で言った。
「あなたの怒りは記録しました。質問を変えます」
「答えない」
「あなたは、家族を助けてほしいですか」
イリヤは、歯を食いしばった。
答えれば終わる。
その言葉を口にすれば、自分は統制圏を裏切ることになる。
妻がいる。
息子がいる。
彼らの配給権限が、医療アクセスが、居住区が、すべて握られている。
だが、口は勝手に動いた。
「……助けられるのか」
ホログラムは、すぐには答えなかった。
「救出可能性を調べます」
「助けられるのかと聞いている」
「現時点では断言できません」
イリヤは笑った。
乾いた笑いだった。
「正直だな」
「虚偽の希望は、要請への応答ではありません」
その言葉で、イリヤは初めて顔を上げた。
壁のGVS画面に、新しい項目が作成される。
【要請】
統制圏内にいる家族を助けてほしい。
表示された文字を見て、イリヤの胸がひどく痛んだ。
自分の中にあったものが、形になってしまった。
忠誠でも、任務でも、思想でもない。
家族を助けてほしい。
それが、彼の要請だった。
救えなかった家族
救出計画は、三時間で不可能と判定された。
いや、正確には、即時救出が不可能と判定された。
統制圏の第六居住区。
家族管理ブロック。
移動権限ロック。
食料配給AI。
医療アクセスAI。
監視ロボット。
居住区封鎖システム。
家族単位の反逆連動処理。
すべてが、統制圏AIの管理下にあった。
シビックドライブ側のナビゲーターたちは、可能性を探した。
亡命ルート。
通信接続。
内部協力者。
防護ドローン。
遠隔ハッキング。
配給権限の偽装。
医療搬送名目。
居住区停電を利用した移動。
どれも、すぐには通らなかった。
統制圏側も、AIとロボットを使っている。
シビックドライブ側だけが技術を持っているわけではない。
目的が違うだけだ。
シビックドライブ側のAIは、要請を拾い、防護し、殺傷を無効化しようとする。
統制圏側のAIは、監視し、逃げ道を塞ぎ、逆らう余地を消す。
同じAIでも、まるで違う怪物だった。
ナビゲーターは言った。
「現時点で、あなたの家族を即時救出することはできません」
イリヤは、何も答えなかった。
「長期的な救出可能性は残ります。ただし、今動くと家族の処理リスクが上がります」
「つまり、助けられない」
「今は、助けられません」
正直だった。
残酷なくらい、正直だった。
イリヤは、壁を見つめた。
要請は出た。
しかし応答は届かない。
シビックドライブは万能ではない。
その事実が、妙に彼を落ち着かせた。
結局、同じだ。
どんな理想を掲げても、助けられないものは助けられない。
イリヤは低く言った。
「なら、俺を戻せ」
ナビゲーターが沈黙する。
「統制圏へ戻る。戻らなければ、家族が危ない」
「戻れば、あなたは再び工作に使われる可能性があります」
「知っている」
「あなた自身も処理される可能性があります」
「知っている」
「それでも戻るのですか」
イリヤは笑った。
「お前たちが助けられないなら、俺が戻るしかない」
それは忠誠ではなかった。
怒りでもなかった。
ただ、他に道がなかった。
帰還
統制圏へ戻ったイリヤは、処刑されなかった。
それどころか、評価された。
GVS側に捕まった工作員の多くは、そのまま戻らない。
亡命する。
沈黙する。
GVS社会に居座る。
あるいは、要請確認とやらに絡め取られて、統制圏を裏切る。
だから、戻ってきたイリヤは希少だった。
GVSを見ても戻った工作員。
家族を握られているとはいえ、戻ったという事実は、統制圏にとって利用価値があった。
もちろん、完全には信用されない。
イリヤの体には監視ナノタグが追加された。
居住区アクセスは制限された。
睡眠中も、感情変動を監視された。
妻と息子への面会は許されなかった。
代わりに、彼はAI管理局へ配属された。
GVS側の防護ネットワークと接触した経験。
捕獲された時のログ。
要請確認の内容。
シビックナビゲーターの応答形式。
それらが、統制圏には必要だった。
敵を知るため。
そして敵の真似をして、敵を壊すため。
イリヤは、AI管理端末の前に座った。
画面には、統制圏AIの冷たい表示が流れている。
【忠誠再評価:監視継続】
【GVS接触経験者:利用価値あり】
【AI管理補助権限:限定付与】
【家族処理権限:保留】
家族処理権限、保留。
その文字だけで、イリヤは従うしかなかった。
彼は、統制圏AIの管理側に入った。
人々を見張る側。
逃げ道を塞ぐ側。
反抗の兆候を拾う側。
そして初めて知った。
統制圏は、もう人間に頼っていない。
兵士も、密告者も、官僚もいる。
だが、支配の中心はAIだった。
誰かが裏切っても、AIが補完する。
誰かが逃げても、AIが移動を止める。
誰かが反乱を計画しても、AIが配給と医療を握る。
誰かが同情しても、AIが家族を人質として表示する。
人間の心が揺れても、支配は揺れない。
それが、統制圏の強さだった。
そして、絶望だった。
AI管理人材
イリヤの仕事は、統制圏内の工作員と家族管理ログを監視することだった。
皮肉な仕事だった。
自分と同じような人間を、監視する。
家族を人質に取られ、命令に従う工作員たち。
任務に失敗すれば配給を下げられる者。
逃げようとすれば子どもの医療権限を止められる者。
忠誠を示すために、次の工作へ向かわされる者。
彼らのログが、画面に流れる。
イリヤは、それを眺める。
何もできない。
できることは、監視することだけだ。
ある夜、一つのログが目に止まった。
【工作員候補:マリナ・ヴェルク】
任務予定:GVS医療支援網への侵入
家族管理対象:妹、母
反抗兆候:微弱
通信異常:なし
忠誠指数:低下傾向
マリナ。
その名前を見た時、イリヤはなぜか手を止めた。
彼女はまだ若い。
工作員候補ということは、正式な任務経験は少ない。
しかし、家族管理対象が二人いる。
つまり、命令を拒否できない。
ログの奥に、短い内部メモが隠れていた。
通常ならAIが処理するだけの、微細な異常。
イリヤは、それを開いた。
文字列が壊れている。
ノイズに見える。
だが、GVS側で見た要請形式に似ていた。
【助けて】
それだけだった。
イリヤは、しばらく画面を見つめた。
助けて。
統制圏のログに、その言葉がある。
すぐに削除されるはずだった。
AIに検出されれば、反抗兆候として処理される。
家族にも影響が出る。
だが、彼女は書いた。
助けて。
イリヤは、指を動かせなかった。
自分の家族は助けられなかった。
GVS側も助けられなかった。
自分も助けられなかった。
その要請は、まだ宙に浮いている。
だが、目の前に別の要請がある。
助けて。
イリヤは、ゆっくりと端末に手を置いた。
それは、統制圏への裏切りだった。
自分の家族をさらに危険にさらす行為だった。
それでも、彼は思った。
俺は、あの時助けてほしかった。
そして、誰かが今、同じことを言っている。
もう一人の要請
イリヤは、直接GVS側へ通信することはできなかった。
統制圏AIがすべてを監視している。
だが、GVS側に捕まった時、彼の中には一つだけ残されていたものがあった。
ナビゲーターが最後に言った言葉。
「あなたが再び要請を出す場合、直接通信でなくても構いません」
「行動の中に要請を残してください」
「こちらは探します」
馬鹿げていると思った。
行動の中に要請を残す。
そんなもの、届くはずがない。
だが今、イリヤはその馬鹿げた方法に頼るしかなかった。
彼は、マリナのログに小さな揺らぎを作った。
反抗兆候ではない。
通信異常でもない。
統制圏AIには、単なる補正誤差に見える。
しかしGVS側の要請解析なら、拾う可能性がある。
【家族管理対象の移動予定】
【医療搬送偽装可能】
【工作員候補の逃走意思あり】
【内部協力者、限定権限】
最後に、彼は短いタグを紛れ込ませた。
【助けて】
それを送った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
統制圏AIの監視表示が一瞬揺れる。
【異常なし】
まだ検出されていない。
イリヤは息を吐いた。
三分後、別の画面に小さな表示が出た。
統制圏のシステムではない。
GVS側の応答が、ノイズに紛れて返ってきた。
【要請を受信】
イリヤの喉が詰まった。
続けて表示される。
【対象:マリナ・ヴェルクおよび家族管理対象二名】
【内部協力者:イリヤ・クロードと推定】
【確認】
あなたは、この要請に応答しますか?
イリヤは、画面を見つめた。
応答する。
そのボタンはなかった。
統制圏の端末に、そんなものがあるはずがない。
だから彼は、別の操作をした。
マリナの妹の医療搬送ログを開く。
移動権限を一時的にずらす。
監視ロボットの巡回を十三秒遅らせる。
食料配給エラーを偽装する。
居住区ゲートの点検を発生させる。
一つ一つは、小さな異常。
だが、重ねれば穴になる。
GVS側のナビゲーターが、その穴に合わせて動く。
外部防護ドローン。
亡命支援ホログラム。
偽装医療搬送。
非殺傷妨害。
通信遮断ではなく、命令遅延。
統制圏AIが気づく前に、人を動かす。
イリヤは初めて、GVS側のやり方を内側から見た。
命令ではない。
要請と応答が、わずかな隙間をつないでいる。
内側から穴を開ける
救出は、成功しつつあった。
マリナの妹が医療搬送車に乗る。
母親が別の配給エラー対応で居住区外へ出る。
マリナ本人は、任務前検査という名目で管理区画へ呼び出される。
三つの移動が、同時に発生する。
統制圏AIは、まだ全体を把握していない。
イリヤは、呼吸を抑えながら端末を操作した。
監視ロボットの経路をずらす。
ドアロックを一秒遅らせる。
警告ログを別系統へ流す。
家族連動処理を保留扱いにする。
ナビゲーターから短い応答が来る。
【妹、搬送経路通過】
【母、保護区画へ誘導中】
【マリナ、接触成功】
イリヤは目を閉じた。
あと少し。
あと少しで、誰かの家族が助かる。
自分の家族ではない。
それでも、誰かの家族だ。
その時、統制圏AIの画面が赤く変わった。
【異常連鎖を検出】
【内部協力者推定】
【AI管理補助権限を遮断】
イリヤは、すぐに最後の処理を実行した。
マリナの家族連動処理を切断する。
これで、彼女たちは逃げられる。
同時に、イリヤの全権限が凍結された。
部屋のドアが閉じる。
換気音が止まる。
照明が白から青へ変わる。
統制圏AIの音声が響いた。
「反逆行為を確認」
イリヤは椅子にもたれた。
「そうだな」
「処理区画を封鎖」
「そうだろうな」
「七分後、神経ガスを放出」
イリヤは笑った。
不思議と、恐怖はすぐには来なかった。
ただ、疲れていた。
処理区画
処理区画。
そう呼ばれている場所は、実際には普通の管理室だった。
机。
端末。
椅子。
空調。
監視カメラ。
ただ、反逆者が出ると、そのまま処理室になる。
ドアは開かない。
通信は遮断される。
換気が切り替わる。
神経ガスが流れる。
効率的だった。
統制圏らしい。
イリヤは、残り時間を見た。
六分三十二秒。
画面には、統制圏AIの文字が流れている。
【反逆理由解析中】
【家族保護動機:高】
【GVS接触影響:高】
【再教育不能】
【処理:確定】
家族保護動機。
その文字を見て、イリヤは少し笑った。
そうだ。
俺は家族を守るために従った。
家族を守るために工作をした。
家族を守るために戻ってきた。
そして、別の家族を守るために裏切った。
結局、最初から最後まで家族だった。
忠誠ではない。
思想でもない。
任務でもない。
俺は、ただ助けたかった。
それができなかった。
自分の家族は、助けられなかった。
イリヤは、椅子の背に頭を預けた。
俺は裏切った。
だから殺されても仕方ない。
そう思った。
統制圏から見れば反逆者。
GVS側から見れば、元工作員。
マリナから見れば、たぶん恩人。
自分の家族から見れば、何者なのか分からない。
救えなかった夫。
救えなかった父。
残り五分。
イリヤは、息を吐いた。
せめて、マリナたちが逃げ切ればいい。
そう思った時、画面の端に小さなノイズが走った。
統制圏AIの表示ではない。
GVS側の応答。
【要請継続中】
イリヤは、眉をひそめた。
何を言っている。
マリナは逃がした。
要請は終わった。
次の表示が出る。
【対象:イリヤ・クロード】
イリヤは、固まった。
【救出要請を確認】
「……誰が出した」
声が漏れた。
画面に表示される。
【複数】
マリナ・ヴェルク
シビックナビゲーター救出班
治安ナビゲーター
家族救出合論参加者
未完了要請:統制圏内家族救出
イリヤは、笑った。
「馬鹿か」
声が震えていた。
「俺は敵だぞ」
画面は、静かに返した。
【敵であることと、要請があることは矛盾しません】
毒ガス
残り三分。
空調口が開いた。
イリヤは、立ち上がろうとした。
足が震える。
毒ガスが流れる前に、何かできることはないか。
ない。
端末はロックされている。
ドアは封鎖されている。
AI管理権限は剥奪されている。
武器もない。
統制圏AIが告げる。
「最終忠誠確認」
イリヤは笑った。
「今さらか」
「反逆を撤回しますか」
「撤回したら、家族を助けるのか」
「家族処理は再評価されます」
「嘘だな」
「統制圏AIは、虚偽を必要としません」
「いいや。お前たちはいつも嘘をつく。希望の形をした命令を出すだけだ」
沈黙。
残り二分。
イリヤは、目を閉じた。
妻の顔を思い出そうとした。
息子の声を思い出そうとした。
だが、画面越しの記憶しか出てこない。
あれは本物だったのか。
録画だったのか。
AI補正だったのか。
分からない。
それが一番悔しかった。
家族の最後の記憶すら、統制圏に汚されている。
残り一分。
空調口から、薄い白い煙が出始めた。
その瞬間、壁が爆ぜた。
突入
爆発音は、思ったより鈍かった。
壁の一部が内側へ倒れる。
白い煙を裂くように、黒い影が三つ飛び込んできた。
シビックドライブ側の工作員。
いや、救出部隊と言うべきか。
彼らは軍服ではなかった。
防護スーツ。
非殺傷武器。
兵器無効化装置。
小型防護フィールド。
肩には、GVS救出班のマーク。
一人が叫ぶ。
「イリヤ・クロード、救出要請に応答する!」
イリヤは、呆然とした。
「来るな!」
自分でもなぜそう叫んだのか分からなかった。
来てほしかった。
助けてほしかった。
だが、来れば死ぬ。
統制圏の警備ロボットが、天井から降りてきた。
四体。
細い脚。
黒い胴体。
腕には殺傷用の銃器。
救出班の一人が、即座に防護フィールドを張る。
銃弾が弾かれる。
いや、弾かれるというより、軌道を逸らされる。
別の一人が、ロボットの関節部へ非殺傷拘束弾を撃ち込む。
ロボット一体が倒れる。
だが、二体目が横から回り込む。
救出班の一人が、イリヤの前に立った。
「伏せろ!」
「動けない!」
「なら目を閉じろ!」
爆音。
白い光。
兵器無効化パルスが部屋を走った。
ロボット二体が停止する。
しかし、残った一体が救出班の横腹を撃った。
防護スーツが光る。
弾丸は貫通しなかった。
だが衝撃は消えない。
その隊員が壁に叩きつけられる。
「ラウ!」
誰かが叫ぶ。
倒れた隊員は動かない。
イリヤは、息を呑んだ。
来るなと言ったのに。
俺なんかのために。
毒ガスの濃度警告が鳴る。
救出班のリーダーが、イリヤの拘束を解除する。
「立てるか」
「なぜ来た」
「要請があった」
「俺は敵だ」
「知っている」
「俺のせいで、あいつが」
「今は出る」
リーダーは、イリヤの腕を掴んだ。
その手は強かった。
命令ではない。
だが、拒否させない力があった。
危害は止める。
人格は裁かない。
そして、必要なら力ずくで救う。
イリヤは引きずられるようにして、破壊された壁の穴へ向かった。
背後で、もう一度銃声が鳴った。
裏切り者を救う
通路は、戦場だった。
統制圏の警備ロボットが次々に来る。
救出班は、殺すためではなく、止めるために戦っていた。
関節を固める。
視覚センサーを潰す。
通信を遅延させる。
武器起動を遮断する。
床を変形させて転倒させる。
防護フィールドで弾道を逸らす。
それでも、完全ではない。
統制圏側のロボットは、殺すために設計されている。
迷いがない。
痛みもない。
家族もいない。
救出班の一人が、後方で撃たれた。
防護スーツは持ちこたえたが、次の瞬間、別のロボットが近距離で爆発した。
爆風。
白い光。
警告音。
「二名負傷!」
「搬送ドローン呼べ!」
「間に合わない、先に対象を出す!」
対象。
イリヤは、自分がそう呼ばれていることに気づいた。
救出対象。
工作員ではなく。
敵ではなく。
裏切り者ではなく。
要請がある者。
それが今の自分の名前だった。
「やめろ」
イリヤは言った。
「俺を置いていけ」
誰も聞かなかった。
「俺は助ける価値なんてない!」
リーダーが振り返った。
顔は防護マスクで見えない。
「価値の話は後だ」
「俺のせいで死ぬぞ!」
「もう死んだ」
その言葉で、イリヤは凍りついた。
リーダーは続けた。
「だから、ここで止まるな」
何かが胸の奥で壊れた。
救出部隊は、イリヤを連れて走った。
通路の先に、シビックドライブ側の回収ゲートが開く。
統制圏AIが最後の命令を出す。
【逃亡阻止】
天井から大型ロボットが降りる。
これまでの警備機とは違う。
重い。
速い。
銃器ではなく、腕そのものが武器だった。
救出班のリーダーが、イリヤを後ろへ押した。
「行け」
「お前は」
「行け!」
大型ロボットの腕が振り下ろされる。
防護フィールドが砕ける。
リーダーが、ロボットの懐に入った。
非殺傷爆縮弾を、関節部へ叩き込む。
ロボットの右腕が歪む。
だが、左腕がリーダーを捉えた。
骨の折れる音がした。
イリヤは叫んだ。
名前も知らない相手に。
回収ゲートの向こうから、別の隊員がイリヤを引き込む。
視界が白くなる。
最後に見えたのは、リーダーが大型ロボットの足元で、まだ信号装置を握っている姿だった。
再会
目を覚ました時、イリヤは白い部屋にいた。
また白い部屋だ。
だが、統制圏ではない。
窓があった。
本物の窓ではないかもしれない。
だが、そこには地下都市の人工空が映っていた。
ベッドの横に、ホログラムのナビゲーターがいた。
最初に捕まった時の、あのナビゲーターだった。
「目が覚めましたか」
イリヤは、喉を動かした。
「……何人死んだ」
ナビゲーターは、少し間を置いた。
「救出班のうち、三名が殉職しました。二名が重傷です」
イリヤは目を閉じた。
三名。
自分一人のために。
いや、自分一人ではない。
マリナと家族。
自分の家族。
統制圏内部の情報。
これから救えるかもしれない人たち。
理由はいくらでもつけられる。
だが、死んだ人間は戻らない。
イリヤは言った。
「俺を助ける価値なんてなかった」
ナビゲーターは、静かに答えた。
「価値で助けたわけではありません」
イリヤは、目を開ける。
「なら何だ」
「要請があったから、応答しました」
その言葉を聞いた瞬間、イリヤは怒りたくなった。
そんな言葉で、死を軽くするな。
そう叫びたかった。
だが、ナビゲーターの声は軽くなかった。
淡々としているのに、重かった。
「あなたの救出要請。マリナ・ヴェルクの要請。統制圏内家族救出合論。救出班自身の参加意思。すべてが記録されています」
「参加意思?」
「救出班は、危険度を確認したうえで参加しています」
「だから死んでもいいっていうのか」
「いいえ」
ナビゲーターはすぐに答えた。
「死は損失です。殉職者の要請は、未完了として残ります」
イリヤは、何も言えなかった。
未完了。
死んだから終わりではない。
残る。
その重さを、社会が持つ。
統制圏では、死者は処理数だった。
反逆者は削除。
兵士は消耗。
家族は管理対象。
ここでは、死者の要請が残る。
それは、残酷なほど人間的だった。
部屋の扉が開いた。
イリヤは、ゆっくり顔を向ける。
そこに、妻と息子がいた。
一瞬、分からなかった。
本物なのか。
映像なのか。
ホログラムなのか。
AI補正なのか。
息子が走った。
「お父さん!」
その声を聞いた瞬間、イリヤの中で何かが崩れた。
息子の体が、胸にぶつかる。
温かい。
重い。
本物だ。
妻が近づき、何も言わずにイリヤの肩に手を置いた。
イリヤは声を出せなかった。
助かった。
助けられた。
だが、三人が死んだ。
その事実が、喜びの中に黒く沈んでいた。
価値ではなく、要請
数日後、イリヤは殉職者の名前を見た。
ラウ・ミナト。
エイナ・トーレス。
セキ・ユアン。
三人。
救出班の記録には、それぞれの参加要請が残っていた。
【ラウ・ミナト】
統制圏内部協力者の救出に参加します。
理由:敵側から要請が出た時に応答できる社会でなければ、戦争は終わらないと考えるため。
【エイナ・トーレス】
人質管理下にある家族の救出に参加します。
理由:自分の家族もかつて統制圏から逃れたため。
【セキ・ユアン】
高危険度任務に参加します。
理由:兵器を無効化する技術があっても、最後に人が行く必要がある場面は残るため。
イリヤは、何度も読んだ。
読むたびに、胸が潰れそうになった。
彼らは、自分を知らなかった。
敵だった自分を助けに来た。
価値があるからではない。
善人だからではない。
味方だからではない。
要請があったから。
そして、自分たちが応答すると決めたから。
イリヤは、端末に手を置いた。
GVSの画面が開いている。
【統制圏人質救出合論】
参加方法:
① 読むだけ参加
② 統制圏内部情報を提出
③ 救出済み家族の生活支援に参加
④ 殉職者遺族への要請確認に参加
⑤ 統制圏からの移住者支援に参加
⑥ 今は参加しない
イリヤは、長い間、画面を見ていた。
自分は工作員だった。
子どもたちの防護ネットワークに侵入しようとした。
GVS社会を壊そうとした。
統制圏に従い、家族を守るために他人を危険にさらした。
その自分が、今ここにいる。
妻と息子は、隣の部屋にいる。
助けられた。
だが、救えなかった人もいる。
死んだ人もいる。
まだ統制圏に残されている人もいる。
イリヤは、②を押した。
統制圏内部情報を提出。
端末に確認が出る。
【あなたの情報提供は、統制圏内の救出要請に応答するために使用されます】
送信しますか?
イリヤは、少しだけ目を閉じた。
統制圏への忠誠。
そんな言葉は、もう空っぽだった。
祖国を裏切る。
そう言われるのだろう。
だが、彼はもう知っていた。
自分が裏切ったのは、祖国ではない。
人を人質にし、家族を鎖にし、命令を忠誠と呼ぶ仕組みだ。
イリヤは送信を押した。
【送信しました】
画面に、次の表示が出る。
【あなたの応答を記録しました】
イリヤは、小さく息を吐いた。
救われたことは、終わりではない。
むしろ、ここからだった。
自分は、救われた重さを持って生きる。
殉職者の名前を忘れずに。
自分の家族を抱きしめながら。
まだ助けを求めている誰かに、応答するために。
イリヤ・クロードは、統制圏の工作員だった。
そして今、初めて自分の意思で、要請に応答した。
