移行施設
移行施設と聞いて、俺は最初、病院みたいな場所を想像していた。
白い壁。
閉じた部屋。
監視カメラ。
許可がなければ開かない扉。
元工作員や犯罪歴のある人間が、社会に戻るために訓練される場所。
だが、実際に行ってみると少し違った。
そこは、地下都市の外縁にある広い生活区画だった。
中央には芝生の広場があり、周囲には訓練室、食堂、作業場、ゲームルーム、ホログラム接続室、小さな水辺、人工の木陰が並んでいる。
施設というより、小さな町に近い。
ただし、普通の町ではない。
歩道の端には、見守りロボットがいる。
建物の角には、防護フィールドの発生装置がある。
人が多い場所では、ホログラム専門家がいつでも現れられるようになっている。
危険動作があれば、床の線が光る。
接触権限の範囲は、参加者ごとに違う。
それでも、空気は思ったより穏やかだった。
子どもが走っている。
老人がベンチで話している。
若いシビッカーが作業場でロボットの動きを見ている。
ホログラムの参加者が、広場の端で輪に加わっている。
ここには、統制圏から逃げてきた人たちがいる。
犯罪歴のある人もいる。
競争主義に染まった社会から来た人もいる。
元工作員もいる。
そして、もともとシビックドライブ社会に住んでいる普通のシビッカーもいる。
つまりここは、危険な人だけを教育する場所ではない。
受け入れられる側も、受け入れる側も、同じ場所で学ぶ。
安全な距離から、関係を作るための場所だった。
案内ロボットが言った。
「本日の参加目的を確認します」
「イリヤ・クロードと、その家族に会う」
「補足します。交流、共同訓練、軽作業、ゲーム、ピクニックが予定されています」
「盛りだくさんだな」
「関係形成には、複数の接点が有効です」
「仕事みたいに言うな」
「実際、一部は仕事です」
俺は苦笑した。
たしかに、今の社会では、関係を作ることも仕事なのだろう。
ホログラムの家族
今回、俺の妻と娘は生身では来ていない。
ホログラム参加だ。
施設側からも、その方がいいと言われた。
救出直後の家族に、いきなり知らない人間が生身で近づきすぎる必要はない。
会話はできる。
一緒にゲームもできる。
ピクニックにも参加できる。
でも、物理的な接触はない。
それくらいの距離から始める。
妻のホログラムが、俺の隣に現れた。
「聞こえる?」
「聞こえる」
娘のホログラムも、少し遅れて現れる。
「パパ、もういる?」
「いるよ」
娘は周囲を見回した。
「ここ、合宿の場所と似てる」
「似てるけど、少し違うな」
「危ない人がいるところ?」
妻が少し眉を上げる。
俺が答える前に、案内ロボットが言った。
「危ない人がいる場所、という表現は一部正確ではありません。ここは、異なる背景を持つ参加者が、安全な距離から関係性を作る場所です」
娘は、素直に頷いた。
「じゃあ、まだ仲良くなる途中の場所?」
「その表現は近いです」
ロボットが答える。
俺は少し笑った。
子どもの方が、時々ずっと分かりやすい。
まだ仲良くなる途中の場所。
たしかに、ここはそういう場所なのかもしれない。
イリヤの家族
広場の奥に、イリヤ・クロードがいた。
救出作戦後に公開されたGVSログで見た時より、少し痩せたように見える。
いや、実際には会ったことがあるわけではない。
俺が見たのは、GVSに公開された要約ログと、救出作戦後の記録だけだ。
統制圏の工作員。
子育て合宿区画への不正アクセス未遂。
GVS側に捕まり、家族の要請が明らかになる。
統制圏へ戻り、AI管理人材に抜擢される。
別の工作員からの救助要請に応答し、人質を逃がす。
自分は処理区画に閉じ込められ、毒ガスを待つ。
シビックドライブ側の救出班が突入。
三名が殉職。
イリヤは救出され、家族と再会した。
そういう記録として、俺は彼を知っている。
だが、目の前にいるイリヤは、ただの疲れた男に見えた。
その隣に、妻と息子がいる。
妻は、周囲を警戒するように少し背筋を伸ばしていた。
息子は、母親の服の端を握っている。
無理もない。
統制圏から出てきたばかりなのだ。
世界の見え方が、こちらとは違うはずだ。
俺は近づきすぎないところで止まった。
案内ロボットが、床に薄い円を表示する。
【初回交流推奨距離】
なんでも表示するなと思ったが、たぶんこれが大事なのだろう。
イリヤがこちらを見た。
「お前が、例のシビッカーか」
「例のってほどじゃない。ただのGVSプレイヤーだ」
「救出合論にいた」
「読むだけ参加だったけどな」
イリヤの目が、少し鋭くなる。
「読むだけでも、見ていたんだろ」
「見てた」
「俺が何をしたかも」
「見た」
イリヤの妻が、不安そうに彼を見る。
イリヤは少し口を閉じた。
俺は言った。
「今日は裁きに来たわけじゃない」
「知っている」
「本当に?」
「ここではそう言うのだろう」
皮肉だった。
まだ、信じてはいない。
それでいいと思った。
いきなり信じられても困る。
ホログラムの娘が、俺の後ろから顔を出す。
「こんにちは」
イリヤの息子が、少しだけ顔を上げた。
「……こんにちは」
娘は笑った。
「ゲームする?」
早い。
妻が小さく笑った。
イリヤの妻も、少しだけ表情を緩めた。
子どもはすごい。
大人が慎重に距離を測っている間に、ゲームの話をする。
もちろん、ここでも距離はある。
娘はホログラム。
イリヤの息子は生身。
ゲームは共有空間で行われるが、接触はない。
それでも、会話はできる。
十分だった。
最初は、それでいい。
ゲームとピクニック
ゲームは、避難ルート作成ゲームだった。
子ども向けの軽いものだ。
地下都市の一部区画が停電した想定で、子どもたちと大人が協力して避難ルートを作る。
ロボットが障害物役になる。
AIの子どもが要請カードを出す。
ホログラム参加者が遠隔から地図を見る。
娘は楽しそうだった。
イリヤの息子は最初、母親のそばを離れなかったが、少しずつゲームに入っていった。
娘が言う。
「こっちの道、近いけど暗いよ」
イリヤの息子が、小さな声で言った。
「暗い方は、監視が少ない」
娘は首をかしげた。
「監視が少ない方がいいの?」
「見つからないから」
その言葉で、周囲の空気が少し止まった。
統制圏では、そうだったのだろう。
見つからない道が、安全な道。
こちらでは逆だ。
見守りがある道の方が安全。
明るい道の方が安全。
要請が出せる道の方が安全。
娘は少し考えたあと、言った。
「ここでは、見つかった方が助けてもらえるよ」
イリヤの息子は、返事をしなかった。
ただ、地図を見つめていた。
俺は、そのやり取りを聞きながら、ここが移行施設である意味を少し理解した。
同じ「安全」という言葉でも、育った社会によって意味が違う。
見つからないことが安全だった子どもと、見守られることが安全だった子ども。
その二人が、同じゲームをしながら、少しずつ言葉をすり合わせていく。
昼には、広場の芝生でピクニックをした。
もちろん、人工の芝生だ。
空も人工。
風も調整されている。
でも、弁当は本物だった。
俺の妻と娘はホログラムなので食べられない。
娘は少し不満そうに言った。
「次は生身で来たい」
案内ロボットが即座に言う。
「接触権限評価後に検討可能です」
娘は頬を膨らませた。
「すぐ評価する」
「評価は双方の要請に基づきます」
「ロボットってすぐそう言う」
イリヤの息子が、少し笑った。
その笑いを見て、イリヤの妻が泣きそうな顔をした。
イリヤは、それを見ないようにしていた。
いや、見られなかったのかもしれない。
再会できた。
家族はここにいる。
それなのに、イリヤの顔は晴れない。
理由は分かっていた。
殉職者の名前が、彼の背中に貼りついている。
ラウ・ミナト。
エイナ・トーレス。
セキ・ユアン。
三人。
イリヤを救うために死んだ人たち。
いや、そう言うと怒られるのかもしれない。
それでも、イリヤの中ではそうなっている。
俺は、少し嫌な予感がしていた。
たぶん、どこかでこの話になる。
俺なんかのために
午後の軽作業は、施設内の水路清掃ロボットの点検だった。
物理作業はロボットがする。
人間は、通路の見え方、子どもや高齢者の通行感覚、作業時の表示の分かりやすさを確認する。
イリヤも参加していた。
彼は、作業に慣れていた。
軍事訓練を受けた人間の動きだ。
無駄がなく、周囲を見る。
危険な箇所を先に確認する。
逃げ道も見る。
ただ、要請カードの使い方はぎこちなかった。
ロボットが水路の端で停止した時、イリヤはすぐに原因を探ろうとした。
俺は表示を見て、止めた。
「先に要請確認だ」
「故障だろ」
「かもしれない。でも、ここは通行者もいる。誰が困ってるかを先に見る」
イリヤは少し苛立ったように息を吐いた。
「遅い」
「遅いこともある」
「戦場なら死ぬ」
「ここは戦場じゃない」
その言葉で、イリヤの目が変わった。
「お前たちの救出班は、戦場で死んだ」
空気が止まった。
ロボットがこちらを見る。
妻のホログラムが、少し表情を硬くする。
俺は、イリヤを見た。
彼の声は震えていた。
「俺なんかを助けるために、三人が死んだ」
言った。
ついに言った。
ずっと言いたかったのだろう。
「俺は工作員だった。子どもたちの防護ネットワークに侵入しようとした。統制圏に従っていた。そんな俺を助けるために、あいつらは死んだ」
イリヤの手が震える。
「俺は、あの三人に何を返せばいい」
俺は、少し黙った。
ここで優しい言葉を言うべきなのかもしれない。
あなたのせいではない。
彼らはあなたを助けたかった。
生きて償えばいい。
そういう言葉は、いくらでもある。
でも、たぶん今のイリヤには届かない。
だから俺は、別の言い方をした。
「うぬぼれるなよ」
イリヤの目が、鋭くなる。
妻が小さく息を呑む。
俺は続けた。
「お前だから助けたわけじゃない。お前に価値があるから助けたわけでもない」
イリヤの拳が握られる。
「何だと」
「彼らが、自分でその要請に応答したかっただけだ」
「ふざけるな」
イリヤの声が低くなる。
「人が死んでいるんだぞ」
「知ってる」
「俺のために死んだ」
「だから、うぬぼれるなと言ってる」
イリヤが一歩踏み出した。
床に薄い警告線が入る。
【発話攻撃性上昇】
ロボットが近づいてくる。
俺は、それでも言った。
「お前のために死んだんじゃない。彼らは自分の意思で救出に参加した。お前を助ける価値があると誰かに命令されたわけじゃない」
イリヤが吐き捨てる。
「命を懸けることを、そんな軽く言うのか」
「軽いとは言ってない」
「同じだ」
「違う」
俺も少し声が強くなった。
「統制圏では兵役は義務なんだろ。命令されて、家族を握られて、行かなければ処理される。そういう死と同じにするな」
イリヤの顔が歪む。
「お前に何が分かる」
「分からない。だから同じにしないと言ってる」
ロボットが、俺たちの間に入った。
「双方の発話に攻撃性が上昇しています。身体的解決を希望する場合、保護リングでの制限付き訓練を提案します」
「希望してねえよ」
俺は反射的に言った。
イリヤは、間を置かずに言った。
「俺はしている」
ロボットの目が光る。
「承認しました。安全条件を確認します」
「承認するな」
俺が言うと、娘のホログラムが少し笑った。
妻は笑っていなかった。
うぬぼれるな
保護リングは、施設の端にあった。
暴力を推奨する場所ではない。
ただ、人間にはどうしても、体を動かさないと収まらない感情がある。
そういう時に、危険を減らして、互いを壊さず、身体を使って処理するための場所。
リングの周囲には、防護フィールドが張られている。
床は衝撃を吸収する。
関節への危険な角度が検知されると、ロボットが即時介入する。
武器はない。
殺傷動作は自動停止される。
イリヤは、リングに入ると別人のようになった。
さっきまでの疲れた男ではない。
統制圏の工作員。
足運びが速い。
視線が冷たい。
距離の詰め方が鋭い。
俺は、すぐに分かった。
勝てない。
戦闘能力で言えば、イリヤの方が上だ。
たぶん何倍も。
だが、ここは勝つための場所ではない。
俺は構えた。
イリヤが言う。
「お前も戦うのか」
「守るための武術を少しな」
「武術?」
「相手を倒すためじゃない。距離を取る。逃げる時間を作る。ロボットが入るまで耐える。相手も自分も壊さない」
イリヤは笑った。
「それを戦いと呼ぶのか」
「呼ばないかもしれない」
「なら何だ」
「守る練習だ」
イリヤが踏み込んだ。
速い。
俺は腕を上げるが、受けるだけで体が流れる。
床が衝撃を吸収する。
イリヤは追撃しようとして、リングの警告が鳴る。
【過剰制圧動作】
ロボットが一歩動く。
イリヤは舌打ちして止まる。
「面倒な場所だ」
「だからここでやるんだろ」
俺は息を整える。
イリヤが再び踏み込む。
俺はまともに受けない。
横に逃げる。
距離を取る。
腕を絡められそうになったら、すぐに離す。
相手を倒そうとしない。
勝とうとしない。
ただ、時間を作る。
イリヤの動きは鋭い。
だが、苛立っていた。
彼は倒したい。
答えを出したい。
自分の罪悪感を、何かにぶつけたい。
俺は逃げる。
守る。
止める。
それだけをする。
数分後、ロボットが試合を止めた。
「双方の身体負荷が上昇しています。休止を推奨します」
イリヤは息を切らしていた。
俺も膝に手をついた。
イリヤが言う。
「お前は、戦う気がないのか」
「あるよ」
「逃げていただけだ」
「逃げるのも技術だ」
「卑怯だな」
「守るためならな」
イリヤは黙った。
俺は、息を整えながら言った。
「遊びって言葉が気に入らないのは分かる」
イリヤの目が細くなる。
「二度と言うな」
「でも言う。遊びってのは、ふざけてるって意味じゃない」
俺は、リングの外にある殉職者ログの表示を見た。
「誰かに命令されてないって意味だ。強制じゃないって意味だ。自分で選び、危険も失敗も引き受けて参加するって意味だ」
イリヤは何も言わない。
「彼らは国家に殉じたんじゃない。上官の命令で死んだんでもない。お前を英雄だと思ったから助けたわけでもない」
「では、なぜ」
「彼らがそうしたかったからだ」
「それでは軽すぎる」
「重く言えば納得できるのか。尊い犠牲。英雄的行為。民主主義のため。シビックドライブのため。そう言えば、お前は楽になるのか」
イリヤが、こちらを睨む。
俺は続けた。
「そういう言葉は危ないんだよ。死んだ人間を美談にして、次の誰かを死地に送る言葉になる」
イリヤは、唇を噛んだ。
「では、俺はどう受け止めればいい」
俺は少し黙った。
答えなんてない。
それでも、言うしかない。
「忘れないこと。彼らが何に応答したのかを残すこと。未完了の要請を、次の誰かが引き受けること」
「それだけか」
「それだけだと思う」
イリヤは、リングの床に座り込んだ。
「それだけで、三人の死が済むのか」
「済まない」
俺は言った。
「済むわけないだろ」
その言葉で、ようやくイリヤの怒りが少しだけ下がった気がした。
遊びで命を懸ける
リングを出ると、妻が待っていた。
ホログラムなのに、腕を組んでいる。
「また言い方が悪い」
「分かってる」
「分かってて言うのが一番悪い」
「はい」
娘は、イリヤを見て言った。
「パパ、逃げるの上手かったでしょ」
イリヤは少し困惑した顔をした。
「上手い、のか」
「うん。パパは逃げる練習してる」
「誇ることなのか」
「守るためだよ」
娘は当然のように言った。
「ロボットが来るまで時間稼ぐんだって」
イリヤは、俺を見る。
「娘にそんなことを教えているのか」
「教えてるというか、見られてる」
「危険な社会だな」
「危険は残る」
俺は答えた。
「だから練習する」
イリヤは、何か言い返しかけてやめた。
そこに施設ロボットがやって来る。
「次の共同訓練が開始されます。宇宙開発訓練区画への移動を希望しますか」
イリヤが眉をひそめる。
「宇宙?」
俺は言った。
「午後は宇宙開発訓練だ」
「お前も参加するのか」
「ああ」
「さっきの状態で?」
「訓練だからな」
イリヤは呆れたように見た。
「お前たちは本当に、危険に近づくのが好きだな」
「好きなやつもいる。俺は半分くらいだ」
「残り半分は?」
「娘がいつか行くかもしれないから」
その時点では、イリヤには意味が分からなかったようだった。
俺たちは、宇宙開発訓練区画へ移動した。
宇宙開発訓練
宇宙開発訓練区画は、移行施設の中でも少し空気が違う。
床の重力が微妙に調整されている。
壁には月面基地の環境データが流れている。
酸素循環系、低重力作業、ロボット共同修復、閉鎖空間心理負荷。
危険な訓練だ。
ただし、ここも最初は安全な距離から始まる。
ホログラム参加。
シミュレーション参加。
成人用軽負荷訓練。
子ども用同期訓練。
実践候補者訓練。
段階が分かれている。
イリヤは、訓練区画の入口で足を止めた。
「元工作員でも参加できるのか」
案内ロボットが答える。
「参加範囲は制限されています。イリヤ・クロード様は、初回観察参加および低リスク共同判断訓練のみ許可されています」
「信用されていないわけだ」
「安全な距離から開始しています」
イリヤは鼻で笑った。
「便利な言葉だな」
「はい。便利です」
ロボットはあっさり認めた。
訓練室に入ると、月面基地のシミュレーションが広がっていた。
銀色の地面。
白い居住ドーム。
作業ロボット。
遠くに地球の映像。
低く響く酸素循環装置の音。
そして、その中央に一人の男がいた。
白瀬悠真。
政治家。
任意拠出型シビックファンドを掲げた男。
大衆に発見され、支えられ、政治家になったGVSプレイヤー。
俺は、彼がここにいるのを知っていた。
だが、イリヤは知らなかったらしい。
彼の顔色が変わった。
「白瀬悠真……」
声が低い。
俺は横目で見た。
「よく知ってるな」
イリヤは一瞬、口を閉じる。
俺は軽く言った。
「大方、暗殺対象だったんだろ」
イリヤは答えなかった。
否定もしなかった。
白瀬悠真
白瀬は、こちらに気づくと軽く会釈した。
宇宙開発用の訓練スーツを着ている。
政治家というより、普通の訓練参加者に見えた。
イリヤには、それが理解できなかったらしい。
「なぜ、あの男がここにいる」
「訓練に参加してるからだろ」
「代表者だぞ」
「政治家でもあるな」
「そんな人間が、なぜ危険な訓練にいる」
「興味があるからじゃないか」
イリヤがこちらを見る。
「ふざけているのか」
「真面目だ」
「国の代表者が、趣味で危険な場所へ行くのか」
「この社会では、そういう人もいる」
イリヤは頭を抱えた。
「俺のいた国では考えられない」
「だろうな」
「代表者は守られる側だ。国の象徴だ。命を危険にさらすなど、許されない」
「本人が行きたいなら行くんじゃないか」
「死んだらどうする。残された家族は。支持者は。制度は」
「それは俺たちが決めることじゃない」
イリヤの顔が歪む。
「冷たいな」
「そうかもな」
俺は白瀬を見た。
彼は、酸素循環系のシミュレーションを確認している。
周囲には、ロボットとホログラム技術者がいる。
政治家としての護衛はいるのだろう。
危険管理もあるのだろう。
本人そっくりのアンドロイドや、緊急時のホログラム代行も用意されているのかもしれない。
だが、それを言うとイリヤがまた怒るのは分かっていた。
なので、あえて言った。
「本人そっくりのアンドロイドやホログラムを使うパターンもあるだろうな」
イリヤは予想通り怒った。
「ふざけるな」
「真面目に言ってる」
「本人の代わりなどいるものか」
「どうだろうな。本人と家族と支持者が納得してるなら、俺が口を出すことじゃない」
「なんて冷たいんだ」
「統制圏ほどじゃないだろ」
イリヤは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
俺は言った。
「直接聞けばいい」
「何を」
「なぜ死ぬ危険があるのに宇宙開発訓練へ行くのか」
イリヤは、白瀬を見た。
迷っている。
だが、結局歩き出した。
俺もついていった。
仲間が増えて嬉しいです
白瀬は、イリヤの問いを静かに聞いた。
イリヤは少し硬い声で言った。
「あなたは政治家だろう」
「はい」
「なぜ、宇宙開発訓練に参加している」
「興味があるからです」
白瀬は即答した。
イリヤは、少し顔をしかめる。
「使命感ではなく?」
「使命感もゼロではありません。ただ、最初にあるのは興味です」
「死ぬかもしれない」
「行かなくても、いつかは死にますよ」
イリヤは黙った。
白瀬は、淡々と続ける。
「死ぬつもりはありません。安全訓練もします。危険評価も受けます。家族説明合論も済ませています」
「それでも、仮に私が死んだとしても、宇宙開発は進んでいくでしょう」
「それでいいのか」
「私一人が死んで止まる活動なら、そもそも公共プロジェクトとしては弱すぎます」
イリヤは、理解できないという顔をしていた。
「あなたは、自分が特別だと思っていないのか」
「役割はあります。ですが、代替不能な存在ではありません」
白瀬は少しだけ笑った。
「代替不能だと思い始めた政治家は、少し危険です」
イリヤは言葉を失った。
統制圏では、代表者は代替不能でなければならない。
そう演出される。
国家の顔。
秩序の中心。
忠誠の対象。
だが、白瀬は違う。
自分が死んでも宇宙開発は進むと言う。
政治家でありながら、趣味で危険な訓練に参加する。
そして、それを特別な英雄行為だと思っていない。
白瀬が、イリヤを見た。
「あなたも訓練に参加するのですか」
イリヤは、少し戸惑った。
「俺は……償いのために」
言いかけて、止まる。
白瀬は、それ以上聞かなかった。
ただ、静かに言った。
「そうですか。仲間が増えて、私は嬉しいです」
それだけだった。
イリヤの過去を聞かない。
罪を掘らない。
統制圏の話もしない。
なぜ償いたいのかも聞かない。
仲間が増えて嬉しい。
それだけ言って、白瀬は訓練に戻った。
イリヤは、その背中をしばらく見ていた。
「……俺に興味がないのか」
俺に向かって、そう言った。
「なぜそう思う」
「普通、事情を聞くだろう。俺が何をしたのか、なぜ償いたいのか」
「聞きたい時は聞くだろ」
「今は?」
「今は、一緒に訓練するかどうかの話だったんじゃないか」
イリヤは眉を寄せた。
俺は続けた。
「事情がどうであれ、あんたはここに来て、一緒に訓練する仲間なんだろ。それでいいじゃないか」
「仲間……」
イリヤは、納得していない顔をしていた。
でも、完全に否定もしなかった。
「しっくりはこない」
「最初はそんなもんだろ」
「お前たちは、過去を軽く見すぎている」
「見てない。最初に全部持ち出さないだけだ」
イリヤは、月面基地のホログラムを見た。
「安全な距離から、か」
「たぶんそうだ」
娘も宇宙へ行くのか
訓練が終わる頃、イリヤは少し疲れた顔をしていた。
戦闘訓練では疲れない男が、宇宙開発訓練で疲れている。
たぶん、体ではなく価値観の方が疲れているのだろう。
白瀬悠真。
趣味で危険な訓練に参加する政治家。
事情を聞かずに仲間と言う男。
死んでも活動は進むと淡々と言う代表者。
統制圏出身のイリヤには、理解しづらいものばかりだったはずだ。
帰り道、イリヤが言った。
「お前の娘も、宇宙訓練をしていると言っていたな」
「ああ。子ども用のホログラム訓練だけどな」
「いずれ、本当に宇宙へ行くのか」
俺は、少し黙った。
人工の通路を、訓練帰りの人たちが歩いていく。
ロボットが片づけをしている。
ホログラム参加者の光が、少しずつ消えていく。
「行きたいとは言ってる」
イリヤがこちらを見る。
「それで、お前はいいのか」
「嫌だよ」
即答した。
イリヤは少し驚いたようだった。
「なら止めればいい」
「それは俺が決めることじゃない」
「親だろう」
「親だから、嫌だとは伝えている」
「それだけか」
「それだけじゃない」
俺は立ち止まった。
壁面には、月面基地の安全基準更新ログが流れている。
酸素循環系。
低重力作業。
ロボット共同修復。
ホログラム同期。
子ども用訓練区画。
家族説明合論。
「娘が本当に宇宙へ行く日が来るなら、俺はたぶん最後まで嫌だと言う」
「なら、なぜ訓練をする」
「嫌だと言うだけじゃ、何も守れないからだ」
イリヤは黙った。
俺は続けた。
「宇宙に行くなと命令することはできるかもしれない。でも、それは統制圏とあまり変わらないだろ」
「極端だ」
「そうかもな」
俺は苦笑した。
「でも、娘が行きたいと言うなら、俺にできるのは、宇宙を少しでも安全に近づけることだと思ってる」
防護技術。
月面作業ロボット。
酸素循環システム。
救助訓練。
宇宙開発安全ファンド。
家族説明合論。
子ども用ホログラム訓練。
俺が今やっていることは、全部少しずつそこにつながっている。
「俺が宇宙へ行きたいかどうかは、正直まだ分からない」
俺は言った。
「でも、娘がいつか行くかもしれない場所を、今より少しでも安全にしたい」
イリヤは、長い間黙っていた。
そして低く言った。
「統制圏では、子どもの未来は親が決めるものではない。国家が決める」
「こっちでは、本人が決める」
「怖くないのか」
「怖いよ」
俺は答えた。
「だから練習する」
イリヤは、少しだけ笑った。
疲れたような、呆れたような笑いだった。
「お前たちは、本当に練習ばかりだな」
「実践より練習が多い世界だからな」
「そして、遊びで命を懸ける」
「そういう人もいる」
「理解できない」
「俺も全部理解してるわけじゃない」
俺は歩き出した。
「でも、安全な距離から始めればいいんだろ」
イリヤは、少し遅れて歩き出した。
送り出せるように
夕方、移行施設の広場へ戻ると、娘のホログラムとイリヤの息子がまだゲームをしていた。
今度は月面生活ごっこだった。
リオのようなAIの子どもも一緒にいる。
ロボットが見守り、ホログラム専門家が遠くで笑っている。
イリヤの妻は、少し離れた場所で妻のホログラムと話していた。
距離はある。
でも、朝より少し近い。
それだけで十分なのだと思った。
イリヤは、自分の息子を見つめていた。
「俺は、あの子に何を教えればいい」
「知らない」
「お前はいつも冷たいな」
「俺も分からないんだよ」
俺は、娘を見た。
ホログラムの娘は、月面基地のロボットを動かしている。
楽しそうだった。
「俺だって、何を教えればいいか分からない。ただ、決めつけないようにはしたい」
「決めつけない?」
「危ないから駄目。女の子だから駄目。子どもだから駄目。親が不安だから駄目。そういう言い方は、たぶん簡単なんだ」
イリヤは黙って聞いている。
「でも、簡単な言葉で止めると、要請が消える。娘が何をしたいのか、どこが怖いのか、何が必要なのか、見えなくなる」
「では、どうする」
「嫌だと言う。怖いと言う。心配だと言う。その上で、どうすれば少し安全になるか一緒に考える」
俺は少し笑った。
「まあ、ロボットみたいな答えだけどな」
イリヤは、広場の見守りロボットを見た。
「ロボットの方が、人間より人間らしい時がある」
「分かる」
俺たちは少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
イリヤは、まだ殉職者の重さを背負っている。
家族も、統制圏の記憶から自由になったわけではない。
俺だって、彼を完全に信じているわけではない。
彼も、俺たちを完全には信じていない。
でも、同じ広場にいる。
子どもたちはゲームをしている。
妻たちは会話している。
俺たちは、さっき殴り合いになりかけたのに、今は並んで立っている。
安全な距離から。
それが、今日の始まりだった。
娘がこちらを振り返る。
「パパ、見てて!」
「見てる」
俺は答えた。
娘は月面ロボットを動かす。
イリヤの息子が避難ルートを出す。
AIの子どもが酸素残量を読む。
ロボットが安全距離を保つ。
ホログラムの専門家が微笑む。
その光景を見ながら、俺は思った。
いつか娘が、本当に宇宙へ行きたいと言う日が来るかもしれない。
その時、俺はきっと嫌だと言う。
行ってほしくない。
危ない。
怖い。
帰ってこられなかったらどうする。
そう言う。
でも、最後に決めるのは俺ではない。
だから俺は、その日までにできる限りのことをする。
宇宙を少しでも安全にする。
守るための技術を支える。
要請を拾う。
訓練する。
逃げ方を学ぶ。
止め方を学ぶ。
送り出せるように、自分も少しずつ変わる。
イリヤが隣で言った。
「俺には、まだ分からないことばかりだ」
「俺もだよ」
「それでも、ここにいていいのか」
俺は少し考えた。
「ホログラムからでも、リングからでも、訓練からでも、ピクニックからでも」
イリヤがこちらを見る。
俺は言った。
「安全な距離から始めればいいんじゃないか」
イリヤは、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
広場の人工太陽が、夕方の色に変わっていく。
娘のホログラムが、月面基地の上で跳ねる。
イリヤの息子が、それを見て笑う。
その笑い声は、まだ少しぎこちなかった。
でも、たしかにそこにあった。
敵だった人間と、同じ社会で生きる。
それは、握手から始まるとは限らない。
信頼から始まるとも限らない。
許しから始まるとも限らない。
ただ、同じ場所に立つ。
距離を測る。
要請を出す。
応答する。
危なくなれば止める。
また距離を取り直す。
そうやって少しずつ、仲間になる。
たぶん、それでいいのだと思った。
