
最終合論が示した優先順位
鯖川町を飲み込んだ熱狂は、数日で少しだけ落ち着いた。
警察が正門前を整理し、県が来訪者向けの案内ページを作り、レオ・グラントの民間ボランティアも、ようやく勝手に動くのではなく、県警と町役場の指示系統に組み込まれた。
それでも、鯖川フレーム製作所の周囲には、まだ見慣れない人間が多かった。
カメラを持った配信者。
海外から来たGVSプレイヤー。
工場見学を希望する学生。
そして、何より社員たちの視線が変わっていた。
黒川工場長は、工場長室のモニターを見ていた。
画面には、鯖川フレーム製作所の工場改革に関するGVS最終合論が表示されている。
【背景カード】
鯖川フレーム製作所は、福野県の若者定着モデル第一号として工場改革を始める。ただし、外部からの注目、来訪者の増加、社員の安全、撮影・公開への不安、相談内容の保護、現場負担への懸念がある。知事案をそのまま導入するのではなく、現場の安全と通常業務を守りながら、段階的に実施する必要がある。
【最終テーマ】
第一段階では、社員通用導線の確保、外部取材ルール、撮影禁止区域、相談内容の保護を優先する。工場内GVSボードは部署限定で試験設置する。巡回カウンセラーは休憩時間と終業前後から開始し、現場作業中の介入は緊急時または本人同意がある場合に限る。工場内ラジオは休憩室から小規模に始める。工場インフルエンサー職と公開撮影は第二段階以降に回す。
黒川は腕を組んだ。
本当なら、工場内ラジオくらいから始めたかった。
それなら現場の抵抗も少ない。
休憩室で流す程度なら、まだ分かりやすい。
若手にも受けるだろう。
だが、GVS上で最も応答が集まり、行政側・社員側・カウンセラー側の要請が重なったのは、そこではなかった。
最優先は安全と導線。
次に撮影ルール。
その次に相談内容の保護。
派手な改革は後回し。
黒川は、低く息を吐いた。
「……これなら、俺が決めたことにはならんな」
横にいた白瀬が、少しだけ眉を動かした。
白瀬は、言いかけた。
GVSは、単なる投票ではない。
だが、最終テーマに上がった以上、そこには妥当性がある。
少なくとも、この混乱の中で最も多くの応答と要請を集めたテーマであることは間違いない。
黒川がそれを優先すること自体は、おかしくない。
ただ、GVSを「これで責任を逃れられる道具」とだけ見てしまえば、また現場の声を取り落とす。
そう言いたかった。
だが、白瀬は言葉を飲み込んだ。
それでも、口から出た言葉は冷たかった。
「責任逃れに使うつもりですか」
その瞬間、黒川の目つきが変わった。
猿回しの猿ではない
「当事者ではないあなたに、何が分かる」
低い声だった。
白瀬は、言葉を止めた。
「正直に言えば、私はあなたに恨みさえありますよ」
「私に、ですか」
「そうです」
黒川は、端末から目を離し、白瀬を見た。
「こんなことに巻き込まれて、なぜ私が帰宅時に尾行に怯えなければならないんですか」
白瀬は何も言えなかった。
「娘には、警察官の護衛までついている」
「……それは」
「お偉い官僚様が、日本をよくするためだから。シビックドライブが未来のためだから」
黒川は、吐き捨てるように言った。
「だからといって、何をやってもいいわけではないでしょう」
白瀬は、視線を落とした。
黒川は、ふと部屋の隅を見た。
小さな撮影機材が置かれている。
赤いランプが、静かに点いていた。
「……まだ撮っているんですか」
白瀬は、さらに言葉に詰まった。
「これは、記録として」
「記録?」
黒川の声が低くなった。
「私が怒るところも、あなたを責めるところも、全部記録ですか」
「公開範囲は確認します」
「そういう話ではありません」
黒川は、白瀬を睨んだ。
「私は猿回しの猿ではない」
部屋の空気が凍った。
「あなた方は、私たちを何だと思っているんですか。県政改革の素材ですか。匿名シビック政治チャンネルの見どころですか。レオ・グラントに世界へ売り出される地方工場の登場人物ですか」
白瀬は、何も言えなかった。
「私は、現場を守っているだけです。社員の生活を守っているだけです。娘に警察官の護衛がついている理由を、家で説明しなければならない父親でもある」
黒川は、撮影機材を指差した。
「それも撮るんですか」
白瀬は、ゆっくりと首を振った。
「……私も、やりすぎだと思っています」
「なら、止めればいい」
「止められません」
「なぜ」
白瀬は、苦い顔をした。
「田中先生から、絶対に記録しろと言われています。私が嫌だと言っても、田中側のスタッフが撮ります。すでに別の記録班も入っています」
黒川は、鼻で笑った。
「なるほど。私は猿回しの猿で、猿回しは一人ではなかったわけだ」
「違います」
「何が違うんですか」
白瀬は答えられなかった。
黒川は、再びGVSの画面へ視線を戻した。
「それでも、これは使います」
白瀬が顔を上げる。
「便利だからです。現場を守るのに必要だからです。あなた方を信用したからではない」
黒川は、最終テーマの表示を指で叩いた。
「社員通用導線。外部取材ルール。撮影禁止区域。相談内容の保護。まずはこれからやる」
そして、低く言った。
「私は責任逃れをしたいんじゃない。責任を一人で抱え込まないために使うんです」
白瀬は、ようやく小さく頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
「謝罪で現場は戻りません」
「はい」
「娘の護衛も、明日には外れるわけではない」
「はい」
「それでもやると言うなら、少なくとも現場を猿にしない仕組みにしてください」
黒川は、画面を見た。
「会議を開く前に、まずGVSに通す。これでいいんでしょう」
「はい」
「便利な道具ですね。腹が立つほどに」
県政にもGVSを通せ
同じ頃。
福野県庁では、小泉純也が、災害対策室に近い部屋でモニターを見つめていた。
鯖川町の交通量。
宿泊施設の空き状況。
外国人来訪者数。
町役場への苦情件数。
警察対応。
県職員の残業時間。
どの数字も、想定を超えていた。
「まさか、ここまでになるとは」
小泉は、椅子に深く沈んだ。
「県を変えると言った。だが、県をパンクさせるつもりはなかった」
そこへ田中丸栄から通信が入った。
「何をしている、小泉君」
「田中先生」
「今がチャンスだぞ」
小泉は、思わず顔をしかめた。
「チャンスですか。県は混乱しています」
「だからこそだ」
田中は即答した。
「県民が今、自分たちの町の問題を自分たちで考えざるを得ない状況になっている。これほどGVSを導入しやすい時はない」
「しかし、正式な制度化には議会も予算も必要です」
「当然だ。だから最初から恒久制度にするな。まずは試験運用だ」
「試験運用」
「県民意見の収集、混乱対応、行政判断の参考資料。そう位置づければいい。決定権を議会から奪うものではない。むしろ議会に出す前の材料を作るのだ」
小泉は黙った。
「マイナンバーカード連携で、福野県民と関係者を確認する。閲覧は広く開く。投稿は県民と行政関係者、認定ナビゲーター、必要な支援者に限定する」
「反発は出ます」
「根回しはわしに任せておけ」
田中の声は、少しも揺れなかった。
「県議会、地元経済界、商工会、国の関係省庁。反対派には面子を用意する。これは県民参加の本格制度ではなく、混乱対応の臨時実証だ。そう言えば通せる」
「田中先生」
「君は思うように走れ」
小泉は、しばらく黙った。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました」
数時間後。
福野県は、行政公認GVSアプリの試験運用を発表した。
【福野県GVSコミュニティモード・試験運用】
鯖川町周辺の人流混乱に対応するため、県民限定のGVS試験運用を開始します。マイナンバーカード連携により、福野県民・関係者として確認された方のみ投稿できます。閲覧は原則公開し、投稿結果は県の対応方針の参考資料として活用します。
通知は、県内のスマホに次々と届いた。
商店街の店主。
駅前の主婦。
町役場の職員。
タクシー運転手。
鯖川フレームの社員。
宿泊施設の受付。
警察官の家族。
そして、何が起きているのか分からないまま不安を抱えていた住民たち。
福野県は、ついに県全体でGVSを使い始めた。
工場改革は現場の仕事になった
翌日。
鯖川フレーム製作所の会議室には、黒川、鯖川社長、白瀬、県職員、巡回カウンセラー、認定ナビゲーターが集まっていた。
ただし、会議は以前の会議とは違っていた。
最初に発言するのは、役職者ではない。
まずGVSの主要ログが読み上げられる。
第一合論で出た社員側の要請。
途中で追加された撮影禁止区域の案。
若手から出た工場内ラジオ案。
ベテランから出た相談内容保護の要請。
カウンセラーから出た巡回条件。
認定ナビゲーターが、それらを短く読み上げたうえで、最後に最終テーマを表示した。
【第一段階・実行順】
一、社員通用導線の確保
二、外部取材ルールの明文化
三、撮影禁止区域の設定
四、相談内容の保護ルール
五、部署限定GVSボードの試験設置
六、休憩室での工場内ラジオ試験導入
七、巡回カウンセラーの限定運用
八、工場インフルエンサー職は第二段階まで保留
黒川は、資料に目を通した。
「工場内ラジオは後回しか」
若手社員の一人が、少し残念そうに言った。
黒川は、短く答えた。
「GVS上では、通用導線と撮影ルールへの応答が多かった」
「でも、工場長はラジオから始めたかったんじゃないですか」
「個人的にはな」
黒川は言った。
「だが、今それを言える状況ではない。外部取材と通用導線を放置してラジオを始めたら、また現場が壊れる」
会議室が静まった。
「だから、この順番でやる」
黒川は、資料を机に置いた。
「まず社員通用導線。次に外部取材ルール。撮影禁止区域。相談内容の保護。GVSボードは検品部署と研磨部署だけで試す」
社長がうなずく。
「必要な費用は、支援対象で処理します」
県職員が続ける。
「外部取材エリアについては、県と町役場、警察で誘導線を作ります」
カウンセラーが言う。
「相談内容の保護については、本人同意なしに人事評価へ回さないことを明文化します」
認定ナビゲーターが続ける。
「公開する動画には、出演同意、撮影範囲、編集確認のチェックを入れます」
黒川は、ひとつずつ確認した。
面倒ではある。
ただ、今まで見えなかったものが見えている。
誰が不満を持っているのか。
誰が協力できるのか。
どの順番で処理すべきか。
何を外部に任せ、何を社内で決めるべきか。
GVSが判断を代わりにしてくれるわけではない。
だが、判断の材料は、以前よりもはるかに見える。
黒川は、少しだけ悔しそうに笑った。
「腹が立つほど便利だな」
白瀬は何も言わなかった。
黒川は、全員を見渡した。
「今日から、会議を開く前に、まずGVSに通せ」
社員たちが顔を上げた。
「愚痴でもいい。不満でもいい。ただし、最終的には実行案と要請にする。誰かを吊し上げるために使うな。現場を守るために使う」
黒川は、画面を指した。
「これが、鯖川フレーム製作所の最初のルールだ」
白瀬は、その言葉を聞きながら思った。
シビックドライブは、正しい人間だけが使うものではない。
納得した人間だけが使うものでもない。
怒っている人間も使う。
恨んでいる人間も使う。
許していない人間も使う。
それでも、使った方が現場が壊れにくいなら、人は使う。
福野県のGVSは、もう理想ではなかった。
道具になり始めていた。
