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第三十五話外伝 知事を馬鹿にしているのか?

 

政策補佐官の榎本が、無言で資料を机に置いた。

 その時点で、良い報告ではないことは分かった。

 榎本は、悪い数字を持ってくる時ほど、余計な前置きをしない。

「知事」

「またか」

 私は、資料を手に取った。

 人口動態。

 県外転出。

 年齢別流出。

 就業者数。

 出生数。

 どれも、見慣れた言葉だった。

 見慣れたくなどなかった。

 資料のグラフは、また右肩下がりだった。

 総人口が減っている。

 出生数も減っている。

 県外への転出超過も止まらない。

 そして、最も目を背けたかった数字が、そこにあった。

 二十代から三十代。

 労働力としても、地域の担い手としても、県の未来を作る世代。

 その層が、また減っていた。

「……また減ったのか」

「はい」

 榎本は短く答えた。

「特に二十代後半から三十代前半の転出が目立ちます。就職、転職、結婚を機に県外へ移るケースが多いようです」

「東京か」

「東京、大阪、名古屋。近場では京都も多いです」

 京都。

 その名前に、私は少しだけ顔をしかめた。

 東京に負けるのは、分かる。

 あれは化け物だ。

 人も金も企業も大学もメディアも、すべて吸い込んでいく。

 勝てると思う方がどうかしている。

 だが、京都にも負ける。

 いや、負けるのは当然なのだろう。

 京都には華がある。

 歴史がある。

 大学がある。

 観光がある。

 街を歩くだけで、自分が何か特別な場所にいるような気にさせる力がある。

 福野県には、何がある。

 工場。

 田んぼ。

 古い商店街。

 郊外のショッピングモール。

 曇った空。

 雪。

 繊維。

 眼鏡。

 電子部品。

 どれも大切だ。

 この県を支えてきたものだ。

 だが、若者が胸を張って「ここで人生を作りたい」と言える物語になっているだろうか。

 私は、資料を机に置いた。

「仕事はあるんだがな」

「はい。求人はあります」

「人手不足の企業も多い」

「はい」

「それでも、出ていく」

 榎本は答えなかった。

 答えようがないのだろう。

 仕事がない県なら、まだ分かりやすい。

 仕事を作ればいい。

 企業を呼べばいい。

 補助金を出せばいい。

 だが、福野県には仕事がある。

 あるのに、選ばれない。

 これほど残酷なことはなかった。

「いったい、この県はどうなってしまうんだ」

 私は、誰にともなく呟いた。

 知事になった時、私は本気で思っていた。

 この県を変える。

 若者が戻ってくる県にする。

 地味な産業を誇れる県にする。

 東京に吸われ続けるだけの県では終わらせない。

 そう思っていた。

 だが、現実は数字で返ってくる。

 意気込みでは人口は増えない。

 演説では若者は戻らない。

 地元愛では企業は増えない。

 県民に「誇りを持て」と言っても、誇れる未来がなければ響かない。

 私は、資料の端を指で叩いた。

「何をすればいいんだ」

 その時、秘書課から内線が入った。

 榎本が受け、こちらを見た。

「知事。白瀬悠真さんから、お電話です」

「白瀬君?」

 久しぶりの名前だった。

 白瀬悠真。

 中央省庁の官僚。

 昔、政策研究会で何度か顔を合わせたことがある。

 若い頃は、妙に目が熱い男だった。

 政治を変えたい、制度を変えたい、そんなことを真顔で言う男だった。

 最近は、少し静かになったと聞いていた。

「つないでくれ」

 受話器を取ると、懐かしい声がした。

「小泉先生。お久しぶりです」

「白瀬君。久しぶりだね。どうしたんだ」

「先生に、どうしても見ていただきたい資料があります」

「資料?」

「はい。今、お送りしました」

 端末に通知が届いた。

 私は、榎本に目で合図し、資料を開かせた。

 画面には、見慣れない形式のカードが並んでいた。

【GVS政治合論】
【テーマ:地方を変えられる知事を探したい】

 私は、眉をひそめた。

「これは何かね。世論調査か?」

「違います」

「では、専門家会議の資料かな。何やら話し合いの形跡があるが」

「GVSです。合論型投票システムです」

「最近、田中先生が言っていたあれか」

「はい」

 私は資料を読み進めた。

 候補者カード。

 提案。

 要請。

 背景カード。

 推薦理由。

 そこには、私の名前があった。

【小泉純也】
福野県知事。
仕事はあるが若者が県外へ出ていく地方県において、県民参加型の県政、地元産業の再評価、若者流出対策を掲げている。
派手な成功例はまだ少ないが、県の将来に強い危機感を持ち、地方政治の新しいモデルを作れる可能性がある。

 私は、少し笑った。

「なるほど。君が私を高く評価してくれていることは分かった」

「私だけではありません。GVS上の合論で、先生が候補として上がりました」

「それで、出版の許可でも取りたいのかな」

「違います」

「では、番組か何かか」

「近いです」

 白瀬の声が、少しだけ強くなった。

「先生。対談していただきたいのです」

「対談?」

「はい」

「私と君が?」

「はい」

「何のために」

 少し沈黙があった。

 そして白瀬は言った。

「新たな政治の未来の可能性がある、シビックドライブについてです」

 私は、椅子にもたれた。

 シビックドライブ。

 GVS。

 田中丸栄。

 最近、政治界隈で妙に聞く言葉だった。

 だが、私はまだ半信半疑だった。

「白瀬君。私はいま、県のことで手一杯だ。新しい政治思想の宣伝に付き合う余裕はない」

「承知しています」

「ならば」

「だからこそ、先生にお願いしたいのです」

 白瀬は、食い下がった。

「先生が情熱を持って政治に向き合っていることを、私は知っています」

 私は、黙った。

「中央で名前を売ることもできたはずです。それでも、先生は福野県知事になった。地方から政治を変えるために」

「買いかぶりだよ」

「田中先生からの推薦もあります」

 私は、少し目を細めた。

「田中先生が?」

「はい。資料の最後をご覧ください」

 榎本が画面を下へ送った。

【田中丸栄からの推薦】
小泉純也は、まだ結果を出し切れていない。
だが、地方政治に対する熱を失っていない。
彼のような知事が、GVSをどう見るかは重要である。
成功者ではなく、苦しんでいる知事にこそ聞くべきだ。

 私は、思わず苦笑した。

「苦しんでいる知事、か。田中先生らしい言い方だ」

「先生。どうか、私を信じて一度だけ顔を立てていただけないでしょうか」

「顔を立てる、ね」

「実名を出す必要はありません。県名も伏せます。顔にはモザイクをかけ、音声も処理します」

「そこまでして出る意味があるのか」

「あります」

「なぜ」

「先生が本音を話せるからです」

 私は、受話器を持ったまま黙った。

 本音。

 知事が本音を話す。

 それがどれほど難しいか、白瀬は分かっているのだろうか。

 県民の前では希望を語る。

 議会では答弁を整える。

 記者会見では不用意なことを言わない。

 支援団体には安心材料を出す。

 国には要望を出す。

 県庁には指示を出す。

 どこにも、弱音を吐く場所などない。

 知事が「どうしたらいいのか分からない」と言える場所はない。

「……君とは旧知の仲だ」

 私は言った。

「はい」

「君がそこまで言うなら、時間を作ろう」

「ありがとうございます」

「ただし条件がある」

「何でしょうか」

「私をシビックドライブの広告塔にしないこと。GVSを褒めるための対談なら出ない」

「もちろんです」

「それと、県名は絶対に出さない」

「承知しました」

「声も変える」

「はい」

「顔も出さない」

「はい」

「私が違和感を持ったら、その場で言う」

「むしろ、それを聞かせてください」

 白瀬は、少し嬉しそうに言った。

「先生の違和感こそ、GVSにかけたいのです」

 私は、受話器を置いた。

 しばらく、何も言わなかった。

 榎本が静かに聞いた。

「お受けになるのですか」

「ああ」

「よろしいのですか」

「分からん」

 私は正直に答えた。

「だが、田中先生と白瀬君がここまで言うなら、見ておく価値はある」

 榎本は、少しだけ不安そうに資料を見た。

「シビックドライブですか」

「知っているか」

「名前だけは」

「私もだ」

 私は、窓の外を見た。

 県庁の向こうに、低い街並みが広がっている。

 派手な高層ビルはない。

 観光客で埋まる街でもない。

 だが、夕方になれば工場から車が出て、家々に灯りがつく。

 この県には、何もないわけではない。

 ただ、その価値を、若者に見せられていない。

 私は、机の上の人口資料をもう一度見た。

 二十代から三十代。

 県の未来を作るはずの世代が、また減っている。

 そして私は、心の中で呟いた。

 素人に何ができるものか。

 県政を何だと思っている。

 政治家なんて誰でもできる。

 知事なんて、素人でもやれる。

 そう言われているような気がした。

 馬鹿にするのも、たいがいにしてほしい。

 だが、その時の私はまだ知らなかった。

 田中丸栄を中心として、世界を巻き込む新たな流れが、すでに到来していることを。

 福野県のような、地味で、仕事はあるのに未来が見えない県こそが、シビックドライブにとって最も相性のいい場所になることを。

 そして、私自身がその渦の中に巻き込まれていくことを。

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