
政策補佐官の榎本が、無言で資料を机に置いた。
その時点で、良い報告ではないことは分かった。
榎本は、悪い数字を持ってくる時ほど、余計な前置きをしない。
「知事」
「またか」
私は、資料を手に取った。
人口動態。
県外転出。
年齢別流出。
就業者数。
出生数。
どれも、見慣れた言葉だった。
見慣れたくなどなかった。
資料のグラフは、また右肩下がりだった。
総人口が減っている。
出生数も減っている。
県外への転出超過も止まらない。
そして、最も目を背けたかった数字が、そこにあった。
二十代から三十代。
労働力としても、地域の担い手としても、県の未来を作る世代。
その層が、また減っていた。
「……また減ったのか」
「はい」
榎本は短く答えた。
「特に二十代後半から三十代前半の転出が目立ちます。就職、転職、結婚を機に県外へ移るケースが多いようです」
「東京か」
「東京、大阪、名古屋。近場では京都も多いです」
京都。
その名前に、私は少しだけ顔をしかめた。
東京に負けるのは、分かる。
あれは化け物だ。
人も金も企業も大学もメディアも、すべて吸い込んでいく。
勝てると思う方がどうかしている。
だが、京都にも負ける。
いや、負けるのは当然なのだろう。
京都には華がある。
歴史がある。
大学がある。
観光がある。
街を歩くだけで、自分が何か特別な場所にいるような気にさせる力がある。
福野県には、何がある。
工場。
田んぼ。
古い商店街。
郊外のショッピングモール。
曇った空。
雪。
繊維。
眼鏡。
電子部品。
どれも大切だ。
この県を支えてきたものだ。
だが、若者が胸を張って「ここで人生を作りたい」と言える物語になっているだろうか。
私は、資料を机に置いた。
「仕事はあるんだがな」
「はい。求人はあります」
「人手不足の企業も多い」
「はい」
「それでも、出ていく」
榎本は答えなかった。
答えようがないのだろう。
仕事がない県なら、まだ分かりやすい。
仕事を作ればいい。
企業を呼べばいい。
補助金を出せばいい。
だが、福野県には仕事がある。
あるのに、選ばれない。
これほど残酷なことはなかった。
「いったい、この県はどうなってしまうんだ」
私は、誰にともなく呟いた。
知事になった時、私は本気で思っていた。
この県を変える。
若者が戻ってくる県にする。
地味な産業を誇れる県にする。
東京に吸われ続けるだけの県では終わらせない。
そう思っていた。
だが、現実は数字で返ってくる。
意気込みでは人口は増えない。
演説では若者は戻らない。
地元愛では企業は増えない。
県民に「誇りを持て」と言っても、誇れる未来がなければ響かない。
私は、資料の端を指で叩いた。
「何をすればいいんだ」
その時、秘書課から内線が入った。
榎本が受け、こちらを見た。
「知事。白瀬悠真さんから、お電話です」
「白瀬君?」
久しぶりの名前だった。
白瀬悠真。
中央省庁の官僚。
昔、政策研究会で何度か顔を合わせたことがある。
若い頃は、妙に目が熱い男だった。
政治を変えたい、制度を変えたい、そんなことを真顔で言う男だった。
最近は、少し静かになったと聞いていた。
「つないでくれ」
受話器を取ると、懐かしい声がした。
「小泉先生。お久しぶりです」
「白瀬君。久しぶりだね。どうしたんだ」
「先生に、どうしても見ていただきたい資料があります」
「資料?」
「はい。今、お送りしました」
端末に通知が届いた。
私は、榎本に目で合図し、資料を開かせた。
画面には、見慣れない形式のカードが並んでいた。
【GVS政治合論】
【テーマ:地方を変えられる知事を探したい】
私は、眉をひそめた。
「これは何かね。世論調査か?」
「違います」
「では、専門家会議の資料かな。何やら話し合いの形跡があるが」
「GVSです。合論型投票システムです」
「最近、田中先生が言っていたあれか」
「はい」
私は資料を読み進めた。
候補者カード。
提案。
要請。
背景カード。
推薦理由。
そこには、私の名前があった。
【小泉純也】
福野県知事。
仕事はあるが若者が県外へ出ていく地方県において、県民参加型の県政、地元産業の再評価、若者流出対策を掲げている。
派手な成功例はまだ少ないが、県の将来に強い危機感を持ち、地方政治の新しいモデルを作れる可能性がある。
私は、少し笑った。
「なるほど。君が私を高く評価してくれていることは分かった」
「私だけではありません。GVS上の合論で、先生が候補として上がりました」
「それで、出版の許可でも取りたいのかな」
「違います」
「では、番組か何かか」
「近いです」
白瀬の声が、少しだけ強くなった。
「先生。対談していただきたいのです」
「対談?」
「はい」
「私と君が?」
「はい」
「何のために」
少し沈黙があった。
そして白瀬は言った。
「新たな政治の未来の可能性がある、シビックドライブについてです」
私は、椅子にもたれた。
シビックドライブ。
GVS。
田中丸栄。
最近、政治界隈で妙に聞く言葉だった。
だが、私はまだ半信半疑だった。
「白瀬君。私はいま、県のことで手一杯だ。新しい政治思想の宣伝に付き合う余裕はない」
「承知しています」
「ならば」
「だからこそ、先生にお願いしたいのです」
白瀬は、食い下がった。
「先生が情熱を持って政治に向き合っていることを、私は知っています」
私は、黙った。
「中央で名前を売ることもできたはずです。それでも、先生は福野県知事になった。地方から政治を変えるために」
「買いかぶりだよ」
「田中先生からの推薦もあります」
私は、少し目を細めた。
「田中先生が?」
「はい。資料の最後をご覧ください」
榎本が画面を下へ送った。
【田中丸栄からの推薦】
小泉純也は、まだ結果を出し切れていない。
だが、地方政治に対する熱を失っていない。
彼のような知事が、GVSをどう見るかは重要である。
成功者ではなく、苦しんでいる知事にこそ聞くべきだ。
私は、思わず苦笑した。
「苦しんでいる知事、か。田中先生らしい言い方だ」
「先生。どうか、私を信じて一度だけ顔を立てていただけないでしょうか」
「顔を立てる、ね」
「実名を出す必要はありません。県名も伏せます。顔にはモザイクをかけ、音声も処理します」
「そこまでして出る意味があるのか」
「あります」
「なぜ」
「先生が本音を話せるからです」
私は、受話器を持ったまま黙った。
本音。
知事が本音を話す。
それがどれほど難しいか、白瀬は分かっているのだろうか。
県民の前では希望を語る。
議会では答弁を整える。
記者会見では不用意なことを言わない。
支援団体には安心材料を出す。
国には要望を出す。
県庁には指示を出す。
どこにも、弱音を吐く場所などない。
知事が「どうしたらいいのか分からない」と言える場所はない。
「……君とは旧知の仲だ」
私は言った。
「はい」
「君がそこまで言うなら、時間を作ろう」
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
「何でしょうか」
「私をシビックドライブの広告塔にしないこと。GVSを褒めるための対談なら出ない」
「もちろんです」
「それと、県名は絶対に出さない」
「承知しました」
「声も変える」
「はい」
「顔も出さない」
「はい」
「私が違和感を持ったら、その場で言う」
「むしろ、それを聞かせてください」
白瀬は、少し嬉しそうに言った。
「先生の違和感こそ、GVSにかけたいのです」
私は、受話器を置いた。
しばらく、何も言わなかった。
榎本が静かに聞いた。
「お受けになるのですか」
「ああ」
「よろしいのですか」
「分からん」
私は正直に答えた。
「だが、田中先生と白瀬君がここまで言うなら、見ておく価値はある」
榎本は、少しだけ不安そうに資料を見た。
「シビックドライブですか」
「知っているか」
「名前だけは」
「私もだ」
私は、窓の外を見た。
県庁の向こうに、低い街並みが広がっている。
派手な高層ビルはない。
観光客で埋まる街でもない。
だが、夕方になれば工場から車が出て、家々に灯りがつく。
この県には、何もないわけではない。
ただ、その価値を、若者に見せられていない。
私は、机の上の人口資料をもう一度見た。
二十代から三十代。
県の未来を作るはずの世代が、また減っている。
そして私は、心の中で呟いた。
素人に何ができるものか。
県政を何だと思っている。
政治家なんて誰でもできる。
知事なんて、素人でもやれる。
そう言われているような気がした。
馬鹿にするのも、たいがいにしてほしい。
だが、その時の私はまだ知らなかった。
田中丸栄を中心として、世界を巻き込む新たな流れが、すでに到来していることを。
福野県のような、地味で、仕事はあるのに未来が見えない県こそが、シビックドライブにとって最も相性のいい場所になることを。
そして、私自身がその渦の中に巻き込まれていくことを。
