
閉じた店の向こう側
瀬戸口美和子は、店先に出した黒板を抱えたまま、道の向こう側を見ていた。
先月まで乾物屋だった店のシャッターは、今日も閉じたままだった。
軒先には、まだ古びた商品札が残っている。
干し椎茸。昆布。煮干し。
手書きの文字は、店主がまた戻ってくるのを待っているようにも見えた。
けれど、もう開くことはない。
店主は七十二歳だった。腰を悪くし、とうとう店を畳んだ。息子は県外で働いている。娘も戻らない。本人は「十分やったよ」と笑っていたが、美和子には、その言葉が諦めにしか聞こえなかった。
「美和子さん。いつまでそこに立ってるんです。冷えますよ」
背後から、荒木征司の声がした。
振り返ると、荒木は工具箱を片手に、瀬戸口食堂の入口に立っていた。祭りの照明も、空き店舗の電気工事も、壊れた街灯の修理も、最後にはこの男に頼ることになる。
「分かってる。今、閉めるところよ」
「また乾物屋の店、見てたんですか」
「見たって、開くわけじゃないけどね」
「次に閉まるのは、どこでしょうね」
「縁起でもないこと言わないで」
美和子は黒板を店内へ運び入れた。
瀬戸口食堂の営業時間は、もう終わっている。
けれど、店の奥の座敷には灯りがついていた。
鯖川中央商店街で、細々と地域活動を続けてきた「まち灯り会」の集まりがある日だった。
座敷には、すでに水野恵が座っていた。テーブルの上に領収書と収支表を並べ、赤字の数字を見ては眼鏡を押し上げている。
その隣では、倉田千佳が持ってきた煮物を小皿に分けていた。会議に呼ばれるたび、何かしら食べ物を持ってくる人だった。
少し離れた壁際では、春日陽斗がノートパソコンを開いている。先日の商店街イベントで撮った動画を編集しているらしく、画面には提灯の並んだ通りが映っていた。
美和子は、その四人を見回した。
もう十年以上、顔ぶれはあまり変わっていない。
誰かが一時的に手伝いに来ることはあった。
若い人が、面白そうだと顔を出すこともあった。
けれど、最後まで残っているのは、いつもこの面々だった。
「今年の夜市ですが」
水野が収支表を指で叩いた。
「去年と同じ規模なら、開催はできます。ただ、これ以上屋台を増やす場合は、追加費用の目途が必要です。去年もかなりぎりぎりでしたから」
「去年と同じで、人が来るんですかね」
荒木が座敷へ上がりながら言った。
「毎年同じ提灯、同じ屋台、同じ踊り。悪くはないけど、これで若いのが戻ってくるとは思えないでしょう」
「戻ってくるための夜市じゃないでしょう」
倉田が煮物を配りながら答えた。
「町の人が、今年も顔を合わせられるようにやってるんだから」
「そうやって維持だけしてるから、何も変わらないんじゃないですか」
荒木の声が少し強くなった。
美和子は、急須に湯を注ぎながら荒木を見た。
「荒木さん。何かあったの?」
「何かも何も、鯖川フレームですよ」
その名が出た瞬間、美和子の手がわずかに止まった。
最近、この町でその名前を聞かない日はなかった。
以前からある眼鏡フレーム工場だ。昔は、商店街へ来る職人たちの多くがそこで働いていた。だがここ最近は、別の意味で話題になっている。
工場内で始まったGVS。
若手社員たちによる動画発信。
口の悪いベテラン職人、大槻源三の妙な人気。
そして今度は、県がAIロボット導入やVR訓練の実証支援まで検討しているという。
「工場が元気になるのは、良いことじゃない」
美和子は言った。
「町に働く場所が残るんだから」
「良いことですよ。そんなのは分かってます」
荒木は、苛立ったように工具箱を座卓の脇へ置いた。
「でも、思いませんか。俺たちだって、この町のために十年以上やってきたんですよ。祭りも、空き店舗も、街灯も、イベントも。なのに、あの工場はGVSを入れた途端、若い連中が目立ち始めて、動画が伸びて、県まで動いてる」
「比べても仕方ないでしょう」
水野が淡々と言った。
「工場には雇用があります。社員には給与があります。私たちの地域活動とは条件が違います」
「だから悔しいんでしょうが」
荒木は吐き捨てるように言った。
「こっちは、誰も来ない中で何年もやってきた。祭りの前日にだけ手伝いに来て、当日が終われば消える連中も見てきた。空き店舗を使って何かしたいと言う人間もいたけど、結局続かなかった。最後に片付けるのは、いつも俺たちです」
美和子は、何も言えなかった。
荒木の言葉には、言い過ぎだと切り捨てられないだけの重さがあった。
夏祭りがなくなりかけた時、美和子が最初に相談したのは荒木だった。
交流スペースに使う空き店舗の配線を直してくれたのも荒木だ。
台風で看板が外れかけた夜、雨の中で脚立に上ったのも荒木だった。
水野は、補助金申請と赤字の処理を引き受けた。
倉田は、イベントのたびに食べ物を出し、高齢者へ弁当を運び続けた。
陽斗は、地元へ戻ってきた後、商店街の写真や動画を撮ってくれた。
自分たちは、何もしなかったわけではない。
それでも、道の向こう側の乾物屋は閉じた。
若者の姿は減った。
通りの灯りも減った。
「……動画、できました」
陽斗が、静かに言った。
場の空気を変えようとしたのかもしれない。
美和子は、パソコンの画面へ目を向けた。
そこには、去年の夜市の映像が流れていた。
提灯の下で笑う子供。
焼きそばを買う高齢者。
倉田の惣菜を並べる机。
荒木が延長コードを引いている後ろ姿。
きれいな動画だった。
「良いじゃない。陽斗、ありがとう」
「はい」
「今年の告知にも使えるわね」
美和子がそう言うと、陽斗は小さくうなずいた。
それ以上は何も言わなかった。
美和子は、なぜかその返事が引っかかった。
けれど、その理由を考える前に、水野の端末が短い通知音を鳴らした。
「何か来ました」
水野が画面を確認する。
「GVSからです。鯖川地域の活動団体へ共有された要請……と表示されています」
「地域のGVS?」
美和子は眉をひそめた。
工場で使われているものが、今度は町へ向けられたのか。
「開いて」
美和子が言った。
水野は端末を座卓の中央へ置き、画面を表示した。
俺たちを馬鹿にしているのか
そこに表示されたのは、誰かの愚痴でも、名前の書かれた批判でもなかった。
GVSによって変換された、実行案と要請だけだった。
【地域実行案】
自分は、企業や既存の地域活動団体に所属していない住民でも、自分が始めたい小規模な活動を提示し、協力者・活動場所・報酬を得られる機会を探せる地域GVSの試験運用に参加します。
【要請】
これまで地域活動を担ってきた方々には、新しい参加者が既存活動の手伝いだけでなく、自分の企画を小さく試せるよう、利用可能な場所、過去の活動で難しかったこと、運営上必要な条件を共有していただけませんか。
美和子は、最初、その文章の意味を読み取るのに少し時間がかかった。
丁寧な要請だった。
自分たちを責める言葉など、どこにもない。
むしろ、これまで地域活動を続けてきた人間の経験を貸してほしいと頼んでいる。
「……なんですか、これ」
荒木の声が、低く響いた。
「荒木さん?」
「俺たちを馬鹿にしているんですか、これは」
「落ち着いて」
美和子は反射的に言った。
「別に、私たちを責めているとは書いていないでしょう」
「書いていないだけですよ」
荒木は、端末の文章を指で示した。
「既存活動の手伝いだけでなく、自分の企画を試せるようにしろ。これ、俺たちのやり方では、自分の企画を持てなかったと言ってるんでしょうが」
「そういう意味とは限らないわ」
「他にどういう意味があるんですか!」
荒木の手が、座卓へ落ちた。
「俺たちが人手を求めていた時、誰が来たんです。祭りの準備も、店の修繕も、片付けも、面倒なことには誰も来なかった。なのに今になって、自分の企画をやらせろ、場所を貸せ、報酬にもつなげろって。ずいぶん都合が良すぎるでしょう!」
美和子は、荒木を止める言葉を探した。
だが、見つからなかった。
言い方は激しい。
けれど、自分にも同じ気持ちが全くないとは言えなかった。
水野が、端末を自分の方へ少し引き寄せた。
「荒木さん。これは、誰かに場所を無条件で貸せという話ではありません。必要な条件を共有してほしいと書いてあります」
「恵さんは腹が立たないんですか」
「立たないとは言いません」
水野は、美和子ではなく画面を見たまま答えた。
「私たちがどれだけ負担してきたかを知らずに、簡単に新しい仕組みを始めたいと言われるなら、腹は立ちます」
「だったら――」
「でも、荒木さん」
水野が顔を上げた。
「私たちが求めていたのは、私たちの活動を手伝ってくれる人だったでしょう」
美和子の胸に、何かが刺さった。
「恵」
「美和子。責めているわけじゃないの」
水野の声は静かだった。
昔から、彼女はこういう言い方をする。
大声を出すのではなく、逃げられない場所へ言葉を置く。
「祭りを手伝ってくれる人。弁当配達を手伝ってくれる人。イベントを撮影してくれる人。私たちが始めたことを続けるために必要な人。そういう人は募集してきた」
「それが悪いことなの?」
「悪いとは言ってない。でも、自分で何か始めたい人が入れる場所だったかは、分からない」
美和子は、答えようとした。
だが、声が出なかった。
「やりたい人がいるなら、やってもらったらいいじゃない」
倉田が、煮物の皿を置きながら言った。
「千佳さんまで」
「私は難しいことは分からないけどね。町が少しでも明るくなって、ここで何かしたいって人が増えるなら、誰が始めても嬉しいわよ」
その言葉は、荒木の怒鳴り声よりも、美和子の胸に深く入った。
誰が始めてもいい。
その通りだ。
町のためを思うなら、本当はそう言えなければならない。
けれど、美和子には言えなかった。
自分が何年、この町に費やしてきたと思っているのか。
食堂の売上が落ちても、祭りの赤字を埋めた。
高齢者の買い物が不便だと聞けば、配達の手配をした。
若い人が帰ってきたと聞けば、仕事を紹介した。
失敗しそうな企画があれば、止めた。借金や責任を背負わせないために。
それを今になって、他の誰かが始めればいいと言われる。
自分は、必要なかったのか。
いや、違う。
必要だったはずだ。
自分たちがいなければ、この商店街はもっと早く消えていた。
美和子は、そう思おうとした。
その時、視界の端で、陽斗の手が止まっていることに気づいた。
彼はパソコンの画面を見ていた。
だが、編集作業は進んでいない。
「陽斗」
美和子は、声をかけた。
「はい」
「あなたは、どう思うの」
陽斗は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、美和子の中に、忘れたふりをしていた記憶が浮かび上がった。
陽斗が町へ戻ってきたばかりの頃、彼は一度だけ、自分の企画を話したことがあった。
空き店舗を、小さな動画制作と配信の拠点にしたい。
町の商品や店の人を撮影して発信したい。
地元の学生や、外へ出た若者とも一緒に何か作れる場所にしたい。
美和子は、その案を認めなかった。
面白いとは思う。
でも、今はそんな余裕はない。
まずは夜市の動画を作って、商店街の活動に慣れて。
場所もお金も、無責任には任せられないから。
陽斗のためを思って言った。
少なくとも、美和子はそう信じていた。
「……話くらいは、聞いてもいいと思います」
陽斗は、それだけ言った。
「あなたも、この地域GVSに賛成なの?」
「賛成かどうかは、まだ分かりません。ただ」
「ただ?」
「自分で何かやりたい人がいるなら、最初から駄目だと決めない方がいいと思います」
美和子は、何も言えなかった。
陽斗は、責めるような口調ではなかった。
怒ってもいなかった。
だからこそ、逃げられなかった。
工場の次は、この町なのね
端末が、もう一度鳴った。
水野が画面を切り替える。
【GVS:地域実行案への応答が届きました】
【応答実行案】
自分は、鯖川フレーム製作所で得られたGVS運用事例を参考に、企業へ所属していない住民も実行案と要請を提示できる地域GVSの試験ルーム設計を支援します。
【要請】
これまで地域活動を担ってきた方々には、現在継続している活動、負担となっている業務、新規参加者と一緒に取り組めること、既存の担当者でなければ難しいことを提示していただけませんか。
【応答者】
白瀬悠真
「白瀬悠真」
美和子は、その名を口にした。
「工場のGVSを担当していた人ですよ」
陽斗が言った。
「工場の次は、俺たちの町ですか」
荒木は、吐き捨てるように言った。
「美和子さん、こんなの相手にする必要ありません。町のことを何も知らない連中が、工場で少しうまくいったからって、こっちまで好き勝手に変えようとしてるだけです」
「町のことを何も知らない、か」
美和子は、白瀬の要請を読み返した。
現在継続している活動。
負担となっている業務。
新しい人と一緒にできること。
自分たちでなければ難しいこと。
追い出せとは書かれていない。
自分たちが悪かったとも書かれていない。
むしろ、自分たちの経験を必要としているように見える。
それでも、美和子の胸には怒りがあった。
自分たちが何を背負ってきたのかも知らずに、新しい人が関われる方法を考えろと言う。
自分たちが何度裏切られ、何度失敗し、何度後片付けをしてきたのかも知らずに、別の誰かの企画へ場所を使わせる条件を考えろと言う。
そんなに簡単な話ではない。
けれど、端末の向こう側にいる誰かが、自分にも町を作らせてほしいと言っているのだとしたら。
その言葉を、初めから閉め出してよいのか。
「……返事をするわ」
「断るんですよね?」
荒木が言った。
「いいえ」
美和子は、端末を手元へ寄せた。
「条件付きで、話を聞く」
「美和子さん!」
「受け入れるとは言っていないでしょう」
美和子は、画面に表示された選択肢を見た。
【協力可否】
・参加する
・条件付きで参加する
・保留する
・辞退する
指先が、二番目の項目を押す。
【条件付きで参加する】
【要請】
自分たちは、長年にわたり鯖川中央商店街の活動を担ってきました。地域GVSの試験運用を検討する場合、これまで継続してきた活動、失敗時に引き受けてきた負担、新しい参加者に任せることへの懸念を確認したうえで、今後の進め方を話し合っていただけませんか。
美和子は、送信ボタンを押した。
すぐに画面が更新される。
【要請を受理しました】
既存の地域活動を継続するために必要な条件と、新しい参加者が小規模な企画を試すために必要な条件を出し合う地域合論ルームを準備します。
荒木が、納得できないように腕を組んだ。
「新しい参加者が企画を試す条件、ですか。結局、俺たちが積み上げてきた場所や仕事を、知らない連中へ渡せって話でしょう」
「そうとは限らないわ」
美和子は答えた。
「私たちの活動を続けるための条件も、出していいと書いてある」
「だったら、何で今さら、他の連中の企画まで面倒を見なきゃならないんです」
美和子は、すぐには答えられなかった。
荒木の言い分は分かる。
自分たちは、誰かの夢を支えるために町を守ってきたわけではない。
消えかけた祭りを残すため。
閉まりかけた店を支えるため。
一人で買い物へ行けなくなった人の暮らしを、少しでもつなぐため。
そのために、自分たちは動いてきた。
けれど、その町で誰かが新しく何かを始めたいと言った時、最初から拒んでしまえば。
それはまた、自分たちだけで町を抱え込むことになるのではないか。
「美和子?」
水野が、小さく名前を呼んだ。
「何でもない」
美和子は、立ち上がって窓の外を見た。
閉じた乾物屋のシャッター。
暗い通り。
自分たちが何度灯りをつけても、翌日にはまた静かになった商店街。
その町で今、自分たち以外の誰かが、初めてはっきりと手を挙げた。
自分にも、この町を作らせてほしい。
美和子は、その要請を受け入れたわけではなかった。
ただ、自分たちが守ってきた町で、自分たちだけが主役であり続けることが、本当に町のためなのか。
その問いから、もう目を逸らすことはできなくなっていた。
