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Season4 第八話 若者の声が消える前に

目次

若者の声が消える前に

 その中で、最初に大きく動いたのは椅子の話だった。

【入力】
腰が痛い。今の休憩室の椅子では、休んだ気にならない。

【変換候補】

  1. 自分は休憩室の椅子の使用状況と、腰痛を感じている社員の声を一週間記録します。腰痛持ちの作業員が休みやすい環境を作るため、椅子の試験導入を検討してほしいです。
  2. 自分は、作業後に身体を休めにくい場所や時間帯を記録します。椅子の購入だけでなく、休憩の取り方や配置も含めて再合論してほしいです。
  3. 自分は、現在の椅子を使い続けた場合の不便な点を写真とメモでまとめます。購入が必要か、配置変更で済むかを比較してほしいです。

【選択】
候補1

【実行案】
自分は休憩室の椅子の使用状況と、腰痛を感じている社員の声を一週間記録します。

【要請】
腰痛持ちの作業員が休みやすい環境を作るため、椅子の試験導入を検討してほしいです。

 最初にそれを選んだのは、大槻源三だった。

 例の魔法のランプおじさんである。

 大槻は、立派な改善提案をしたつもりなどなかった。

 ただ、腰が痛かった。

 休憩室の椅子が硬かった。

 若い連中のカフェだのラジオだのに金を使うくらいなら、こっちを何とかしろと思った。

 それだけだった。

 だが、GVSはその文句を、そのまま文句では終わらせなかった。

 大槻が候補1を選ぶと、AIはすぐに記録フォーマットを提示した。

【実行案補助】
休憩室の椅子改善に関する記録項目
・利用時間帯
・利用者の部署
・腰痛、肩こり、疲労感の有無
・座りにくい椅子の種類
・改善候補
・購入以外で可能な工夫

「なんで俺が記録なんか取らなきゃならねえんだ」

 大槻は最初、そう言った。

 だが、数分後にはスマホを構えていた。

「写真撮るだけならできる」

 その一言から、椅子改善テーマは動き出した。

 そして、動き出すと早かった。

 腰痛持ちのベテランが反応した。

 検品担当の女性が反応した。

 事務員も反応した。

 若手も反応した。

 ただし、GVS上では、その反応は感想のままでは表示されない。

 感想は、何も生まない。

 いいと思います。

 微妙だと思います。

 使いづらいと思います。

 若者にも必要だと思います。

 ベテランにも必要だと思います。

 その言葉だけでは、誰も動けない。

 それは、責任を取らないまま誰かに何かを期待する言葉になりやすい。

 だから、GVSでは反応も実行案と要請に変換される。

【応答1】
【実行案】
自分は若手として、休憩室の奥の椅子を実際に使った使用感を記録します。新人や若手が休みにくいと感じる場面も、具体的にメモします。

【要請】
ベテランの方だけでなく、新人や若手の休憩しやすさも含めて、椅子改善案を検討してほしいです。

【応答2】
【実行案】
自分は検品作業後に腰が重くなる時間帯や、どの椅子を使った時に休みにくいかを記録します。必要であれば、休憩室内の配置も写真で共有します。

【要請】
椅子の種類だけでなく、休憩室の配置や使い方も含めて改善できないか検討してほしいです。

【応答3】
【実行案】
自分は、全部の椅子を買い替えるのではなく、まず三脚だけ試験導入する案をまとめます。導入後は、使用ログの記録にも協力します。

【要請】
最初から全体導入するのではなく、三脚だけ試験導入し、使用ログを見てから追加購入するか判断してほしいです。

【応答4】
【実行案】
自分は、中古備品、地元業者の協賛、リースなど、新品購入以外の候補を調べます。価格や搬入条件も比較します。

【要請】
椅子改善を新品購入だけに限定せず、中古品・協賛・リースなども含めて検討してほしいです。

 黒川は、その流れを黙って見ていた。

 正直、意外だった。

 椅子など、どこの会社にもある。

 買おうと思えば買える。

 会社の備品費で、三脚や四脚を買うこと自体は不可能ではない。

 問題は、そこではなかった。

 誰の要望として買うのか。

 なぜ今なのか。

 なぜ椅子なのか。

 なぜ工具ではないのか。

 なぜ空調ではないのか。

 なぜ給料ではないのか。

 その説明がつかないから、今まで誰も動かなかった。

 壊れていない椅子は、壊れていない椅子として扱う。

 不満があることは分かっていても、見なかったことにする。

 多くの工場がそうしてきた。

 たぶん、自分もそうしてきた。

 黒川は画面を見ながら、苦いものを飲み込んだ。

椅子くらい、買える

 数日後、椅子改善テーマは第二合論へ進んだ。

 さらに代表者同士の合論を経て、最終合論に残った。

 選ばれた案は、思ったよりもよくできていた。

【最終合論案】
休憩室の椅子改善・三週間試験導入

【実行案】
・休憩室奥側に、腰への負担が少ない椅子を三脚だけ試験導入する
・新品購入だけでなく、中古備品、地元業者協賛、リースも比較する
・導入対象は全社員共用とし、特定個人の専用椅子にはしない
・使用後アンケートではなく、GVS上で利用ログと使用感を記録する
・導入後三週間で、追加購入、配置変更、撤去のいずれかを再合論する

【要請】
・腰痛や疲労感がある社員は、使用感を記録してほしい
・管理職には、購入費と維持費を明示してほしい
・椅子改善に反対する社員は、反対理由と代替案をGVSに入力してほしい
・工具、空調、給料、休憩時間など別改善を望む社員は、購入以外でできる実行案も含めて候補を出してほしい

 候補椅子は三種類まで絞られていた。

 価格。

 耐久性。

 掃除のしやすさ。

 搬入のしやすさ。

 座り心地。

 地元業者の対応。

 中古品の在庫。

 比較表も作られていた。

 大槻が撮った写真も入っていた。

 若手が作った表もあった。

 検品担当の女性が書いた使用感メモもあった。

 黒川は、その資料を見ながら、しばらく黙っていた。

 隣にいた白瀬が言った。

「かなり丁寧ですね」

「ええ」

 黒川は答えた。

「丁寧です」

「では、試験導入で進めますか」

 白瀬がそう言った時、黒川は資料から顔を上げた。

「白瀬さん」

「はい」

「これは、本当に実行していいのでしょうか」

 白瀬は、一瞬だけ言葉を失った。

「何か、問題がありますか」

「問題はあります」

 黒川は、画面を指で叩いた。

「確かに、最終合論で選ばれたのは椅子です。資料も十分に調べられている。価格比較もある。三脚だけの試験導入という条件も妥当でしょう」

「はい」

「ですが、全員が椅子を選んだわけではない」

 白瀬は黙った。

「工具を選んだ者もいる。空調を選んだ者もいる。給料を選んだ者もいる。休憩時間を選んだ者もいる。椅子が選ばれたということは、それらが選ばれなかったということです」

 黒川は、白瀬を見た。

「結局、GVSも多数決ではありませんか」

 白瀬は、すぐには答えなかった。

 黒川は続けた。

「多数派の意見を通し、少数派を切り捨てる。そうすれば少数意見は不満を持つ。反乱を起こす。なら、最初から何もしない方が安全です。壊れていない椅子は替えない。壊れていない工具は替えない。誰かが本気で怒り出すまで動かない」

 黒川の声は静かだった。

 だが、重かった。

「実際、多くの工場がそうしている。違いますか」

 白瀬は、ゆっくり息を吐いた。

「違いません」

 黒川の眉がわずかに動いた。

「認めるのですか」

「はい。GVSにも、多数決的な性格はあります。代表テーマが選ばれ、最終合論案が選ばれる。選ばれる意見と、選ばれない意見が出る。それは事実です」

「なら、同じでは?」

「同じ部分はあります」

 白瀬は言った。

「ですが、大きく違う点があります」

「何です」

「合論は、善悪を決めるものではありません」

 黒川は、顔をしかめた。

「善悪?」

「はい」

「いったい何を言っているんです」

 その反応は当然だった。

 椅子を買うかどうかの話で、善悪という言葉は大げさに聞こえる。

 白瀬も、それは分かっていた。

「多数決は、多くの場合、何が正しいかを決めます。選ばれた意見が正しい意見になり、選ばれなかった意見は正しくない意見として扱われやすい」

「合論だって一緒では?」

「GVSの場合、決めるのは正しさではありません」

 白瀬は、画面を指した。

「自分は何ができるか。仲間にどう助けてほしいか。それを積み上げるのです」

 黒川は黙った。

 白瀬は続けた。

「椅子が選ばれたからといって、工具改善が間違いになったわけではありません。空調改善が間違いになったわけでもない。給料の要請が不当だと決まったわけでもない」

「しかし、実行されるのは椅子です」

「今回は、です」

「それが少数派には不満になる」

「なります」

 白瀬は即答した。

「GVSでも、不満は出ます」

「では、やはり反乱は起こる」

「起こる可能性はあります」

 黒川は、少し驚いたように白瀬を見た。

 白瀬は、逃げなかった。

「ただし、普通の多数決と違うのは、選ばれなかった意見にも、実行案と要請案が積み上がっていることです」

「積み上がっている?」

「はい」

 白瀬は画面を切り替えた。

 そこには、椅子以外の未採用テーマが並んでいた。

【未採用テーマ】
工具改善

【実行案候補】

  1. 自分は、工具の不具合、交換待ち、作業ロス、安全リスクを一週間記録します。その記録をもとに、椅子改善案と工具改善案の優先順位を再合論してほしいです。
  2. 自分は、今ある工具の置き場所、貸し借り、点検ルールで困っている点を洗い出します。購入せずに改善できる部分があるか、現場で試してほしいです。
  3. 自分は、他社事例やオンラインGVSの工具改善ログを調べ、購入が必要な改善と運用変更だけでできる改善を分けて提案します。低コストで効果が高い案を検討してほしいです。

【未採用テーマ】
空調改善

【実行案候補】

  1. 自分は、暑さを感じる時間帯、工程、場所を記録します。空調購入だけでなく、扇風機配置、休憩タイミング、水分補給場所の改善案も比較してほしいです。
  2. 自分は、夏場の体調不良や集中力低下の記録を取ります。季節要因を含め、次回の環境改善テーマとして扱ってほしいです。
  3. 自分は、購入しなくてもできる暑さ対策を集めます。低コスト案で効果が出た場合、提案者への改善手当も検討してほしいです。

【未採用テーマ】
給料・手当

【実行案候補】

  1. 自分は、GVS参加、技術案内、見学対応、改善ログ作成など、通常作業以外の貢献を記録します。会社には、通常業務と追加貢献の線引きを示してほしいです。
  2. 自分は、改善活動で実際に会社の利益やコスト削減につながった事例を記録します。一定の成果が出た場合、改善手当として還元してほしいです。
  3. 自分は、給料そのものではなく、まず手当・評価・休憩・業務負担のどれが優先かを整理します。社員全体で再合論してほしいです。

 黒川は、画面を見つめた。

「これは、誰が作ったんですか」

「AIが候補を出しています。社員の入力、工場内の過去ログ、オンラインGVSの類似テーマ、他社事例、ネット検索結果を参考にしています」

「本人が、最初からそんなことを考えていなくても?」

「問題ありません」

 白瀬は言った。

「不満を入力すると、AIが三つ程度の実行案と要請案を出す。本人は、その中から選ぶ。あるいは修正する。選ばなければ投稿されません」

「つまり、AIが勝手に本人の意思を作るわけではない」

「はい。入口を作るだけです。選ぶのは本人です」

 黒川は、工具改善の候補をもう一度見た。

「椅子より工具が先だ、という文句も、こうなるわけですか」

「はい」

「ただ工具も別テーマにしてほしい、ではない」

「それでは不十分です」

 白瀬は、はっきりと言った。

「それは反対意見を横にどかすだけです。GVSでは、異議も実行案になります。工具が先だと思うなら、自分は何を記録するのか、どんな比較材料を出すのか、誰に何を要請するのかを選びます」

 黒川は、深く息を吐いた。

「なるほど」

 その声には、完全な納得ではないが、理解はあった。

「つまり、選ばれなかった少数意見にも、協力的な言葉が集まる。だから、自分が完全に無視されたという感覚は、多数決よりは薄れる。そう言いたいわけですね」

「理屈の上では、そうです」

「それでも、無視されたと感じる人間は出ますよ」

「出ます」

 白瀬は認めた。

「その場合は、一度の合論で終わらせる必要はありません。希望者だけで追加合論をしてもいい。部署別に合論してもいい。オンラインモードで外部の類似事例を集めてもいい」

「そうすると、最終合論案が複数出てくることになります」

「はい」

「どう選ぶのですか」

「方法は二つあります」

 白瀬は言った。

「一つは、黒川さんが選び、社員に説明することです」

「私が」

「はい。会社で実行する以上、管理職の判断が必要な場面はあります。GVSに責任を預けるべきではありません」

 黒川は、少しだけ目を細めた。

「もう一つは?」

「最終合論案同士を、GVSで再合論にかけることです」

「そこさえも、GVSで決めるのですか」

「決めてもいいし、決めなくてもいい。重要なのは、選ばれなかった意見を負けとして消さないことです」

 黒川は、椅子改善案と未採用テーマを見比べた。

 椅子。

 工具。

 空調。

 給料。

 休憩時間。

 評価。

 全部を同時にはできない。

 だが、全部を黙らせる必要もない。

「選ばれなかった意見は、購入できないというだけかもしれない」

 黒川は、ぽつりと言った。

 白瀬がうなずいた。

「そうです。工夫で何とかなることもあります」

「工具を買えないなら、貸し借りのルールを変える。置き場所を変える。点検表を作る。故障記録を取る」

「はい」

「空調を買えないなら、扇風機の配置を変える。休憩時間をずらす。水分補給場所を増やす。暑さのログを取る」

「はい」

「それで改善できるなら、機材を買うより安い」

「その場合、改善手当を検討できます」

 黒川は、白瀬を見た。

「手当ですか」

「はい。購入せずに現場の工夫で改善できた場合、会社にとってもコストダウンになります。提案者や実行者に手当を出せば、わがままを言えば買ってもらえるという文化ではなく、要請を出し、応答し、工夫すれば改善と報酬につながる文化になります」

 黒川は、しばらく黙っていた。

 そして、椅子改善案に目を戻した。

「分かりました」

「では」

「椅子は買います」

 白瀬は、小さく息を吐いた。

「ただし」

 黒川は続けた。

「これは、最終決定ではありません。試験導入です。三週間後に再合論します。未採用テーマも消しません。工具、空調、給料、休憩時間、それぞれ購入以外でできる実行案を出すように指示します」

「はい」

「そして、GVSで選ばれたから買う、という言い方はしません」

 白瀬は顔を上げた。

「どう言いますか」

「会社として、GVSの最終合論を参考に、試験導入を決めたと言います」

 黒川は言った。

「責任はGVSではなく、私が持つ」

 その言葉に、白瀬は少しだけ背筋を伸ばした。

「それがよいと思います」

「あなたに褒められると、不安になりますな」

「すみません」

「冗談です」

 黒川は、ほんの少しだけ笑った。

 だが、その笑みはすぐに消えた。

「それにしても」

「はい」

「便利ですね、GVSは」

「ありがとうございます」

「褒めてはいません」

 黒川は資料を閉じた。

「便利な道具は、仕事を減らすとは限らない。今まで見ないふりをしていた仕事が、見えるようになるだけかもしれない」

 白瀬は答えなかった。

 その通りだった。

 業務内GVSは、仕事を軽くする魔法ではない。

 むしろ、今まで黙っていた声を起こす。

 見なかった不満を見せる。

 なかったことにしていた調整を、仕事にする。

 それでも、白瀬は思った。

 見えないまま辞められるよりはいい。

 見えないまま恨まれるよりはいい。

 見えないまま、工場が古くなっていくよりはいい。

あの資料、分かりにくい

 椅子改善案が正式に試験導入へ進む前に、社内GVSボードへ資料が貼り出された。

 ただし、作成者名は表示されていなかった。

【テーマ】
休憩室の椅子改善・三週間試験導入

【作成者】
匿名

【実行単位】
全社員対象/休憩環境改善チーム/管理職確認

【個別協力】
候補調査、使用ログ集計、配置確認は希望者から募集

 黒川の判断だった。

 資料作成者を実名表示すれば、すぐに人の話になる。

 あの資料、分かりにくい。

 あいつが作ったのか。

 こんな出来でよく出したな。

 言い出したなら最後まで直せ。

 そうなる。

 そうなれば、誰も資料を出さなくなる。

 だから、資料も匿名のたたき台として扱う。

 悪ければ、GVSで改良案を求めればいい。

 最初に出した者を殴る必要はない。

 実際、資料が貼り出された当日、すぐに批判が出た。

【入力】
この資料、分かりにくい。どこを見ればいいのか分からない。

 普通の職場なら、それはただの感想で終わる。

 あるいは、作成者への攻撃になる。

 だが、GVSはそれをそのまま貼らなかった。

【変換候補】

  1. 自分は、この資料の分かりにくい部分を三か所選び、現場向けに書き直した見本を出します。資料を共同改善のたたき台として扱ってほしいです。
  2. 自分は、椅子改善案の要点を一枚にまとめた簡易版を作ります。忙しい社員でも確認できる掲示用資料として使えるか検討してほしいです。
  3. 自分は、資料に必要な項目と不要な項目を分けて提案します。現場向け、管理職向け、購入判断向けで資料を分けてほしいです。

【選択】
候補2

【実行案】
自分は、椅子改善案の要点を一枚にまとめた簡易版を作ります。

【要請】
忙しい社員でも確認できる掲示用資料として使えるか検討してほしいです。

 黒川は、その変換を見て、思わず声を漏らした。

「なるほど」

 白瀬が横から画面を覗いた。

「どうしました」

「あの資料は分かりにくい、という文句が、見本を出しますに変わった」

 白瀬は、少し笑った。

「GVSらしいですね」

「批判した人間が、次の改善案の作者になる」

「はい」

「これなら、作った人間を殴らずに済む」

 黒川は、画面を見たまま言った。

「日本の職場では、意見を言うことが責任を取らされることに近すぎる」

 白瀬は黙った。

「提案したならお前がやれ。失敗したらお前のせいだ。批判したなら代案を出せ。代案を出したなら最後まで面倒を見ろ」

 黒川は、自分自身にも言い聞かせるように続けた。

「そういう場所では、人は感想しか言わなくなる。いいと思います。微妙だと思います。使いづらいと思います。必要だと思います」

「責任を取らずに、誰かにやってほしい」

「そうです」

 黒川は言った。

「他責です。しかし、本人だけが悪いのではない。責任を取るという言葉が、殴られることに近すぎるから、感想に逃げる」

 白瀬は、その言葉を聞いていた。

 黒川は、GVSボードを見た。

「GVSは、責任を軽くするのではない。責任を小さく切るんですな」

「小さく切る?」

「自分ができる範囲。協力してほしいこと。条件。期間。担当チーム。管理職の責任。それを分ける」

「はい」

「それなら、殴られるための責任ではなく、関わるための責任になる」

 白瀬は、少しだけ驚いた。

 それは、白瀬が説明したかったことそのものだった。

 だが、黒川の言葉の方が、ずっと現場に近かった。

三脚だけかよ

 数日後、休憩室の奥に三脚の椅子が置かれた。

 新品ではなかった。

 地元の閉店した施設から譲り受けた中古椅子を、清掃し、クッションだけ交換したものだった。

 大槻は、それを見て言った。

「三脚だけかよ。魔法のランプのくせにしけてやがる」

 近くにいた若手が笑った。

「でも、大槻さんの写真がなかったら、これもなかったですよ」

「俺の写真じゃねえ。腰痛の証拠だ」

「じゃあ、腰痛の証拠のおかげですね」

「うるせえな」

 大槻はそう言いながら、椅子に座った。

 少しだけ身体を沈める。

「……まあ、悪くねえ」

 若手がスマホを向けた。

「使用ログ、入れておきます?」

「勝手に入れろ」

「本人の感想が必要です」

「面倒くせえ」

 大槻はそう言った。

 だが、数秒後にはスマホを取り出していた。

【入力】
前の椅子よりはまし。腰は少し楽。
ただし、背もたれが柔らかすぎる気もする。
あと三脚だと取り合いになる。追加するなら、先に利用ルールを決めた方がいい。

【変換候補】

  1. 自分は、椅子の利用時間帯と取り合いが発生しやすい時間を記録します。追加購入の前に利用ルールを決めてほしいです。
  2. 自分は、腰痛持ちの社員が優先的に使える条件案を出します。特定個人の専用ではなく、公平に使えるルールを合論してほしいです。
  3. 自分は、背もたれや座面の違いによる使いやすさを記録します。追加導入する場合、同じ椅子でよいか再検討してほしいです。

 大槻は、画面を見て顔をしかめた。

「また俺がやるのかよ」

 若手が笑った。

「どれ選びます?」

「選ばねえよ」

 大槻はそう言った。

 そして、候補1を押した。

 若手が吹き出した。

「選んでるじゃないですか」

「うるせえ。取り合いになったら面倒だからだ」

「それも改善案です」

「違う。面倒を避けてるだけだ」

 大槻は、そう言って椅子に座り直した。

 若手は、なぜか少し嬉しそうに笑っていた。

 その様子を、黒川は休憩室の入口から見ていた。

 隣には白瀬がいた。

「面倒くさいと言いながら、やっていますね」

 白瀬が言った。

「そうですね」

 黒川は答えた。

「面倒くさいという感情も、変わるのでしょうか」

 白瀬がつぶやいた。

 黒川は、少し考えた。

「作業量が減ったわけではないでしょう」

「はい」

「むしろ、やることは増えている」

「はい」

「では、何が変わったのか」

 黒川は、大槻を見た。

 大槻は若手に何か文句を言いながら、椅子の利用時間をメモしていた。

「自分がやっても無駄だ、という感じが少し薄れたのかもしれません」

 白瀬は、黒川を見た。

 黒川は続けた。

「面倒というのは、作業量だけの話ではない。やっても意味がない。どうせ変わらない。誰も見ていない。そう思うから面倒になる」

 白瀬は黙って聞いていた。

「少しでも反応があり、少しでも変わり、少しでも誰かに感謝されるなら、同じ作業でも面倒ではなくなるのかもしれない」

 黒川は、少し苦い顔をした。

「まあ、大槻に感謝などしたくありませんが」

「そこは、私も分かります」

 二人は、小さく笑った。

 その時、GVS管理画面に新しい通知が入った。

【新規投稿】
椅子より工具が先だと思っていたが、椅子の利用ログを見ると、休憩環境も作業効率に関係していると分かった。
自分は、工具改善についても同じように一週間記録を取りたい。
工具の不具合、交換待ち、探す時間、安全確認の手間を記録するので、椅子改善と同じ形式で再合論してほしい。

 黒川は、それを読んだ。

 投稿者は、工具改善を最初に推していたベテランだった。

 椅子案を選ばなかった人物である。

 黒川は、しばらく画面を見つめた。

「少数意見は、反乱しませんでしたね」

 白瀬が言った。

「まだ分かりません」

 黒川は、すぐに返した。

「これから反乱するかもしれない」

「そうですね」

「ただ」

 黒川は、ゆっくりと言った。

「今のところは、次の実行案になった」

 白瀬はうなずいた。

 GVSは、反乱を消す仕組みではない。

 少数意見を消す仕組みでもない。

 不満を、次の実行案に変える仕組みだった。

 休憩室では、大槻がまだ文句を言っていた。

「椅子が三脚なら、次は机も見ろよ。こっちのテーブル、脚がガタついてんだよ」

 若手が言った。

「GVSに入れます?」

「入れねえよ」

「入れないんですか」

「……候補だけ見せろ」

 若手は笑った。

 大槻は、不機嫌そうにスマホを覗き込んだ。

 その姿は、まだ協力的な人間には見えなかった。

 口は悪い。

 文句も多い。

 すぐに威張る。

 面倒くさいと言う。

 それでも、彼はもう、文句だけを言う人間ではなくなっていた。

 文句を入力し、候補を選び、少しだけ動く人間になっていた。

 その変化は、小さかった。

 だが、確かに始まっていた。

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