
匿名では、仕事にならない
鯖川フレーム製作所の工場改革は、ようやく現場の仕事になり始めていた。
社員通用導線。
外部取材ルール。
撮影禁止区域。
相談内容の保護。
部署限定のGVSボード。
すべてが一気に整ったわけではない。
むしろ、ひとつ決めるたびに新しい問題が出てきた。
その中で、白瀬悠真が最も危険だと感じたのは、GVSそのものだった。
通常GVSを、そのまま会社に入れてはいけない。
会社には勤務時間がある。
評価がある。
報酬がある。
配置がある。
上司と部下がいる。
責任がある。
地域やSNSで使うGVSとは、まったく条件が違う。
白瀬は、その日、黒川工場長に新しい資料を差し出した。
「黒川さん。業務内GVSの導入を検討していただけませんか」
黒川は、資料の表紙を見た。
【業務内GVS 試験導入案】
「業務内GVS?」
「通常GVSを、業務現場向けに改良したものです」
「また新しいものを作ったのですか」
「必要になりました」
黒川は、椅子に深く座り直した。
「聞きましょう」
その声には、以前のような全面的な拒絶はなかった。
だが、歓迎でもない。
便利なものだから使う。
それ以上でも、それ以下でもない。
黒川は、そういう顔をしていた。
「まず、従来通り、社員間では匿名で行います」
「匿名ですか」
「はい」
「それでは結局、誰がどういう不満を持ち、何を望んでいるのか分からないのでは?」
「その通りです」
白瀬は、うなずいた。
「ですから、黒川さん。つまり管理職だけは、誰が書いているか把握できるようにします」
黒川の眉が動いた。
「私だけが?」
「管理権限を持つ一部の管理職に限定します」
「それなら、匿名に何の意味があるんですか」
当然の疑問だった。
「社員同士には匿名。しかし管理職には見える。社員からすれば、結局上には見られているわけでしょう」
「はい」
「それは匿名と言えますか」
「完全な匿名ではありません」
白瀬は認めた。
「ただし、職場では完全匿名だけでは仕事になりません。実行者が誰か分からなければ、勤務調整も配置も手当も安全管理もできない」
「それは分かります」
「一方で、社員全員に実名で見える形にすれば、発言できない人が出ます」
黒川は黙った。
「特に、入ったばかりの新人はそうです」
白瀬は続けた。
「仮に新人が、居丈高な要請をしたらどうなりますか。あるいは、実行案におおよそ実現不可能なことを書いたら」
黒川は、苦い顔をした。
「馬鹿にされるでしょうね」
「はい」
「場合によっては、居場所を失う」
「その通りです」
白瀬は資料をめくった。
「GVS内でも『それは現実的ではない』という応答は出るでしょう。しかしAI変換が入るため、少なくとも人格攻撃にはなりにくい。元の言葉が荒くても、背景カード、実行案、要請に変換されます」
黒川は、小さく息を吐いた。
「若いと、馬鹿なことを考えがちです」
「はい」
「だが、それを頭ごなしに叱れば、退職の原因にもなる」
「そこです」
「ベテランに、それを抑えろというのも不可能でしょうな」
黒川は、遠い目をした。
誰か特定の顔を思い浮かべているようだった。
「分かりました。匿名の話は納得です」
黒川は、資料を机に置いた。
「とはいえ、まだ気になることはあります」
「何でしょうか」
「新人が言いたい放題言うのは、社内の雰囲気として良くないのでは?」
白瀬は、静かにうなずいた。
「それが、次の妥当性の話になります」
若者の声を、もう一度合論にかける
「妥当性?」
「はい」
白瀬は、画面にGVSの流れを表示した。
第一合論。
代表テーマ。
第二合論。
最終テーマ。
その横には、実行案、要請、応答のログが並んでいる。
「合論を経て上位に進んだテーマは、参加者がその実行案や要請、応答を見て『もっと見たい』『やってみたい』と判断したものです」
「つまり、露出が増える」
「はい。上位に進むほど、多くの実行案、要請、応答が集まりやすくなります」
「最終テーマに選ばれたものは?」
「今回の話し合いの中で、最も妥当性があると判断されたものです。その意味では、投票的な性格もあります」
「なるほど」
黒川はうなずいた。
「つまり、最終テーマだけを中心に扱っても、別に間違いではない」
「はい。特に初期運用では、それでも社内の納得感は上がります」
「それは分かる」
「ただし」
白瀬は、少し言葉を慎重にした。
「今回は、若者定着モデルです」
黒川の表情がわずかに固くなった。
「そこは理解しています」
「ありがとうございます」
「色々ありましたが、結果的には、あなた方には感謝もしています」
色々。
その言葉に、白瀬はわずかに痛みを覚えた。
黒川はまだ、白瀬を許してはいない。
当然だ。
尾行に怯え、娘に護衛がつき、工場も家族も世間の見世物になった。
それでも、黒川はこうして話を聞いている。
白瀬は、軽く頭を下げた。
「その若者定着モデルとして、行政側からお願いがあります」
「何ですか」
「第一合論で止まっている若者の実行案と要請に、焦点を当てていただきたいのです」
黒川の目が細くなった。
「第一合論で止まっているということは、現実性がない、妥当性が低い、応答が集まらない。そういうことではありませんか」
「そういう場合もあります」
「なら、いくら若者の意見とはいえ、ひいきするわけにはいきません」
「そのまま実施してほしい、という話ではありません」
白瀬は首を振った。
「若者の意見をピックアップし、再合論にかけてほしいのです」
「再合論?」
「はい」
白瀬は、画面に例を出した。
【第一合論で止まった若者案】
工場内ラジオを流し、若者が働きやすい雰囲気にする。
【再合論テーマ】
工場内ラジオを、作業安全とベテラン社員の集中を妨げずに試験導入するには?
「元の実行案を、なるべく損なわないまま、妥当性と現実性のある形に再合論します」
「つまり、若者の案を社員全体で整える」
「そうです。そして、再合論で出た最終テーマを、その若者本人に通知します」
「通知?」
「あなたの案は、このように変換されました。この条件なら会社として試験導入できます。実行しますか、協力しますか、と」
黒川は、少し考えた。
「本人が断った場合は?」
「全体告知して、希望者を募ります」
「複数出た場合は?」
「GVSで調整します」
「誰も出なければ?」
「保留です」
黒川は、資料を見つめた。
「それには、どういう意味があるんですか」
「三つあります」
「三つ?」
白瀬は、指を一本立てた。
「一つ目は、行政の施策を実施したというアピールです」
黒川は、少しだけ苦笑した。
「ずいぶん正直ですね」
「これは我々の顔を立てる上で重要です」
「まあ、それはいい。分かっています」
白瀬は、二本目の指を立てた。
「二つ目は、若者が、自分の意見で会社を変えたという感覚を持てることです」
「それは、やってみなければ分からないでしょう」
「はい。ですが、ただの理想論ではありません。会社側にも損がない、妥当性と現実性を持った形に変換します」
「つまり、若者の未熟な案を、そのまま通すわけではない」
「はい」
白瀬は、三本目の指を立てた。
「三つ目が、最も重要です」
「何ですか」
「社内全体で、その若者の意見を協力して整えた、という雰囲気ができます」
黒川は眉を寄せた。
「なぜそうなるんですか」
「考えてみてください」
白瀬は、言った。
「いくら政府の施策とはいえ、第一合論で止まった案を、行政がいきなり実施してくださいと言えば、ちゃぶ台返しです」
「それは、まあ」
「社員からすれば、何のためにGVSをしたのか、という話になります」
「政府の施策だから、という理屈は通りませんか」
「我々の都合としては通ります。しかし社員がそう考えるとは限りません」
黒川は、腕を組んだ。
「あり得ますね」
「ですが、再合論をすればどうでしょうか」
「どう、とは」
「若者が出した案を、ベテランも、管理職も、カウンセラーも、ナビゲーターも含めて現実的に整える。そうなれば、社員たちは『若者のわがままを押しつけられた』ではなく、『自分たちも協力して、この案を現場向けに整えた』と感じやすくなります」
黒川は黙った。
白瀬は続けた。
「つまり、実行が進みやすくなります」
「理屈の上では正しい」
黒川は言った。
「実際そうなるかは分かりませんが」
「少なくとも、ある程度の協力は見込めるのではないでしょうか」
「それは認めざるを得ません」
黒川は、画面に表示された若者案を見た。
工場内ラジオ。
休憩室の改善。
若手向けの見学案内役。
新人が質問しやすい時間。
GVSログを使った安全訓練。
どれも、第一合論では止まった案だった。
若者らしく、少し軽い。
現場感が足りない。
だが、完全に捨てるには惜しい。
「慣れてくれば」
白瀬は言った。
「再合論を挟まなくても、黒川さんの判断で若者の意見をピックアップし、現場に合う形へブラッシュアップできるようになります」
黒川は、顔をしかめた。
「それだと、私の業務量が増えるのでは?」
官僚の悪い癖
「増える部分はあります」
白瀬は、正直に答えた。
「ですが、減る部分もあります」
「減る部分?」
「はい。今まで一人ずつ聞き取り、雰囲気を読み、退職の理由を推測し、若者が辞めた後に反省していた部分です」
黒川の目が細くなった。
白瀬は、その視線に気づいた。
だが、言葉は止まらなかった。
「もし、減る部分がないというなら、それは今までその業務に取り組んでいなかっただけです」
言った瞬間、空気が変わった。
黒川の顔から表情が消えた。
「私のせいだと言いたいのか」
白瀬は、息を止めた。
「身を削って、あなた方に協力しているこの私に」
黒川は、低く言った。
「よくもそんなことが言えたものだ」
「……失言でした」
白瀬はすぐに頭を下げた。
「協力していただいていることには、感謝しております」
「官僚様は、数字を見れば何でも分かるらしい」
「申し訳ありません」
「若者が辞めた。離職率が上がった。だから管理職の仕事が足りていない。そう言いたいのでしょう」
「そこまで単純に言うつもりでは」
「だが、そういう意味だ」
黒川は言い切った。
白瀬は、何も返せなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、黒川は視線を落とした。
「いや」
その声は、さっきより少しだけ弱かった。
「少し意地悪が過ぎたな」
「いえ」
「あんたの言う通りでもある」
白瀬は顔を上げた。
「実際、私は自分の仕事をできていなかった部分がある」
「黒川さん」
「認めたくはないが、データが出ている」
黒川は、画面に表示された若者離職率を見た。
「若手は辞めている。理由も言わずに辞める。いや、理由を言える場所を、こちらが作っていなかった」
白瀬は黙っていた。
「データは嘘をつかないのだろう? 官僚様」
その言い方には、まだ棘があった。
だが、完全な拒絶ではなかった。
「重ね重ね、申し訳ありません」
「官僚の悪い癖ですね」
「はい」
「正しいことを、正しい顔で言う」
黒川は、資料を閉じた。
「現場では、それが一番嫌われる」
「覚えておきます」
「覚えるだけでは困ります」
「はい」
黒川は、しばらく考えた。
そして、言った。
「業務内GVS。試験導入しましょう」
白瀬は、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし条件があります」
「何でしょうか」
「業務時間内にGVSを行う場合、その時間は勤務時間として扱う。その代わり、扱うテーマは業務改善、安全、技術継承、若者定着、外部対応に限定する」
「妥当だと思います」
「GVSで発生する収益については?」
「業務時間内のGVSで発生した収益は、原則として会社収益。ただし、個人の出演、技術案内、要請整理、見学対応など、貢献が明確なものは手当またはGVSファンド報酬の対象にします」
「全部会社が取れば、やりがい搾取になる」
「はい」
「だが全部本人に渡せば、眼鏡が売れた利益もよこせという話になる」
「そこは線引きが必要です」
黒川はうなずいた。
「保護相談モードは?」
「管理職にも見せたくない相談は、外部カウンセラーと認定サポーターが確認します。ハラスメントや報復リスクがある場合です」
「通常の改善要請は?」
「管理職確認モードです」
「分かりました」
黒川は、資料に署名した。
「業務内GVS、始めましょう」
モンスターを起こした
最初の数日は、若手の意見が多かった。
工場内ラジオ。
休憩室の改善。
新人が質問しやすい時間。
作業手順の動画化。
工場見学ブース。
フレームカフェのSNS発信。
やはり若者定着モデルらしい内容だった。
黒川は、それを見て少し安心した。
だが、同時に違和感もあった。
ベテランがほとんどいない。
「これでは、若者の工場になってしまう」
黒川は言った。
「長く働いてきた人間の意見も必要です」
白瀬も同意した。
そこで会社側は、ベテラン社員にもGVS参加を促した。
技術継承。
設備改善。
身体的負担。
若手教育。
作業導線。
評価制度。
どんな不満でもいい。
AIが背景カード、実行案、要請に変換する。
最初、ベテランたちは渋った。
「今さら何を書けってんだ」
「若い連中がやるもんだろ」
「言ったところで変わらん」
だが、ある人物の要請が通ったことで、空気が変わった。
例の魔法のランプおじさんこと、大槻源三である。
作業台が変わった。
補助人員がついた。
フレームカフェで技術説明をして、手当まで出た。
その瞬間、ベテランたちの目の色が変わった。
「あれ、言えば通るのか」
「俺も腰が痛いんだが」
「うちの機械も古い」
「若手教育の負担、俺らに寄りすぎだろ」
「評価されない技術が多すぎる」
「昼休みが短い」
「作業着が暑い」
「給料を見直せ」
ある朝。
業務内GVSの管理画面が、一気に動き始めた。
一件。
二件。
五件。
十件。
三十件。
投稿していたのは、若者ではなかった。
ベテランだった。
大槻だけではない。
溶接担当。
検品担当。
組み立て担当。
事務所の古株。
パートの女性。
長く黙ってきた人間ほど、書き始めると止まらなかった。
給料。
腰痛。
休憩時間。
若手への不満。
設備の古さ。
社長への不信。
評価されない技術。
トイレ。
作業着。
昼休み。
カフェ手当。
動画出演手当。
GVSをする時間。
黒川は、画面を見たまま動けなかった。
白瀬も、横で息を飲んだ。
若者定着モデルとして始めたはずだった。
だが、GVSが掘り起こしたのは、若者の声だけではなかった。
三十年、四十年、黙ってきた人間たちの声だった。
彼らは不満がなかったのではない。
言う場所がなかっただけだ。
黒川は、低くつぶやいた。
「モンスターを起こしたな」
白瀬は、その言葉を否定できなかった。
GVSは、声なき人に声を与える。
だが、声を与えるということは、時に暴動を起こすことでもあった。
