
レオチャンネル
その夜、レオ・グラントは、街の中心部にあるイベントホールの向かい側で、古いスマートフォンを握っていた。
画面には、何本ものひびが入っている。
高架下で眠っていた頃、寒さでかじかんだ手から落とした時についたものだ。
それでも、まだ使える。
カメラは映る。
配信もできる。
レオに残された武器は、それだけだった。
イベントホールの正面には、黒塗りの車が並んでいる。
入口の上部では、大型スクリーンが今夜の慈善イベントを映し続けていた。
【生活再建支援基金チャリティーガラ】
【主要寄付者 ダニエル・コールドウェル】
【寄付表明額 4,280,000ドル】
一週間前、レオが高架下で見上げていた男だった。
白いスーツを着て、貧困者の未来について語り、拍手を浴びながら四百二十八万ドルを寄付した富豪。
「金があるなら、出してみろよ」
レオは笑った。
ただ寄付をするだけでは足りない。
施設へ金を流して、朝食が増えました、ベッドが増えました、よかったですねで終わるなら、小さすぎる。
この街では、今も若い連中がドラッグを売っている。
ジェイデンのような男が、金と仲間と威信を握っている。
それを奪えるだけの金を、誰かが本気で出せるのか。
レオは試したかった。
偽善者どもの仕組みが、本当にあの街の金の流れを変えられるのか。
そして、その中心に自分が立てるのか。
スマートフォンを開く。
【LEO CHANNEL】
【登録者:38】
【ライブ配信を開始しますか】
「三十八人か」
一週間前なら、笑う気力もなかっただろう。
今は違う。
レオは配信開始を押した。
【LIVE】
画面の上部に、小さな赤い表示が点灯する。
「ヘイ、レオチャンネル。久しぶりだな」
視聴者数は、まだ一人だった。
「今日は、お前らに本物のビジネスを見せてやる」
【視聴者:3】
「今、俺の向かいにいるのは、四百二十八万ドルを支援基金へ寄付した男だ。立派だな。素晴らしいな。きっと世界一の善人だ」
レオは、笑いながら道路の向こうへカメラを向けた。
「だが、俺は聞きたい。お前の金で、あの街のガキはドラッグを売らずに済むのか? 銃を持たずに、でかい顔して歩けるのか?」
【視聴者:11】
コメント欄に、一つだけ文字が流れた。
JAY_D:お前、本当に行ったのか?
レオは、にやりと笑った。
「見てるな、ジェイデン」
イベントホールの扉が開いた。
報道カメラが一斉に向きを変える。
拍手に囲まれながら、ダニエル・コールドウェルが姿を現した。
レオの心臓が跳ねた。
警備員がいる。
柵もある。
ここから走れば、どうなるか分からない。
一瞬だけ、足が止まった。
銃を持っている人間がいるかもしれない。
襲撃者だと思われれば、地面へ押さえつけられるだけでは済まないかもしれない。
それでも、ここで声をかけるだけなら、誰も見ない。
安全な場所から要求を叫んで、誰が金を出す。
命を張るほど本気でなければ、ジェイデンも、あの街の連中も、富豪も、こちらを向かない。
「へっ……やってやるぜ」
レオは、スマートフォンを自分の顔へ向けた。
「見てろ。俺は、ここから上がる」
そして、規制柵へ向かって走った。
「ヘイ! ミスター・コールドウェル!」
警備員が振り向く。
レオは柵へ手をかけ、勢いのまま越えた。
「アイ・アム・フェイマス・ユーチューバー! 俺とコラボしてくれよ!」
会場前の空気が凍った。
富豪がこちらを見る。
警備員が動く。
レオは、スマートフォンを掲げたまま叫んだ。
「その寄付金、俺に賭けろ!」
「あんな施設へ金を流して終わるな!」
「俺が、この街のドラッグディーラーを――」
左右から、黒い影が飛び込んできた。
体が宙に浮いた。
「ぐっ――!」
次の瞬間、レオはアスファルトへ叩きつけられていた。
肩へ衝撃が走り、腕を背中へねじ上げられる。
スマートフォンが手から離れ、乾いた音を立てて地面へ落ちた。
もともと画面に入っていたひびが、落下の衝撃で一気に広がった。
一本だった傷が、蜘蛛の巣のように画面全体へ走る。
黒く欠けた液晶。
砕けたガラス。
わずかに明滅する赤い配信表示。
レオの、最後に残っていた道具だった。
それが、完全に割れた。
だが、配信は切れていなかった。
地面に落ちたスマートフォンのカメラは、斜めになった視界の中で、アスファルトへ頬を押しつけられたレオの姿を映していた。
「俺が……この街のドラッグディーラーを……!」
警備員が叫ぶ。
「動くな! 手を見せろ!」
「シビックヒーローに変えてやる!」
周囲で悲鳴と怒号が上がる。
富豪は複数の警備員に囲まれ、車の方へ移動させられていく。
レオは、その背中へ向かって叫び続けた。
「薬よりでかい金を出せ!」
「路地裏で薬を売ってる奴らに、表で稼げる舞台を出せ!」
「俺に賭けろ、ミスター!」
「俺が結果を見せてやる!」
警備員に腕を固められ、声が途切れそうになる。
それでもレオは、喉が裂けるほど叫んだ。
割れたスマートフォンの向こうで、視聴者数が急速に増えていく。
【視聴者:84】
【視聴者:311】
【視聴者:1,402】
誰かが映像を切り抜き、別の配信へ流した。
誰かがタイトルを付けた。
ホームレス上がりの男、慈善富豪へ突撃
「ドラッグディーラーをヒーローに変えるから俺に金を出せ」
映像は、レオが警察車両へ押し込まれるまで回り続けた。
最後に映っていたのは、地面へ置き去りにされた、画面の砕けたスマートフォンだった。
百万人の馬鹿
翌日の午後。
レオは、警察署内の面会室で、手首の拘束具を机の下へ隠すようにして座っていた。
肩が痛い。
頬には、アスファルトへ擦りつけられた傷が残っている。
だが、顔は笑っていた。
透明な仕切りの向こうへ、ジェイデンが現れたからだ。
ジェイデンは椅子へ座るなり、深いため息を吐いた。
「あれか?」
「何がだ」
「お前が俺に見せたいと言っていた、面白いものってのは」
「ああ。面白かっただろ?」
「馬鹿か、お前は」
ジェイデンは、上着のポケットから何かを取り出した。
レオのスマートフォンだった。
画面は砕けている。
端からガラス片が剥がれ、液晶の半分は黒く死んでいた。
「警察が返した荷物の中にあった。画面は完全に終わってる」
レオは、仕切り越しにそれを見た。
一週間前、高架下で握りしめていた端末。
GVSへ初めて悪態をついた端末。
ジェイデンへ啖呵を切った端末。
それはもう、まともに操作できる状態ではなかった。
「配信は?」
レオが聞いた。
「そこかよ」
「再生数は?」
ジェイデンは、呆れたように黙った。
その沈黙で、レオには分かった。
「言えよ」
「……元動画と切り抜き合わせて、百二十万を超えた」
レオの口元が、大きく歪んだ。
「百二十万」
「まだ伸びてる。お前を命知らずの馬鹿だって笑ってる奴もいる。英雄気取りのホームレスだって罵ってる奴もいる」
「だが、“こいつに本当に金を渡したら何をするのか見たい”って奴もいる」
「十分だ」
「十分じゃねえ」
ジェイデンは、低い声で言った。
「お前、撃たれててもおかしくなかったんだぞ」
「撃たれなかった」
「そういう問題じゃねえ。金持ちへスマホ向けて走っていく奴が、配信者か襲撃者かなんて警備には分からねえ」
「だが、届いた」
レオは、砕けたスマートフォンから目を離さなかった。
「路地裏で俺が叫んでも、誰も見ねえ。施設で何十件文句を集めても、動く金は小銭だ」
「だが昨日、俺は何も持たずに、百二十万人の目を奪った」
「スマホまで失って、警察に捕まってな」
「安いもんだろ」
ジェイデンは、仕切りの向こうで黙り込んだ。
昔から、レオはこうだった。
無茶をする。
大口を叩く。
失敗しても、自分が負けたとは認めない。
そのせいで全部を失った男だ。
だが、目の前のレオは、一週間前まで高架下で死にかけていた男には見えなかった。
傷だらけの顔で、壊れた端末を見つめながら、まるで王座でも手に入れたように笑っている。
「レオ」
「何だ」
「ドラッグはやるなって、昔言ったはずだぞ」
レオは、一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。
「キメてねえよ」
「なら、素でそれか。救いようがねえな」
「ジェイデン」
レオは、笑みを消さなかった。
「俺は、シビックヒーローになる」
「……」
「市民たちの、真のヒーローにな」
ジェイデンは、返事をしなかった。
馬鹿げている。
計画もない。
金もない。
スマートフォンさえ壊れている。
それなのに、百二十万人が、この馬鹿を見た。
ジェイデンは、机の上に置いた割れた端末を見つめた。
画面は死んでいる。
だが、その画面が最後に映した男の叫びは、今も街中へ広がり続けている。
「……釈放されたら、連絡しろ」
ジェイデンは、立ち上がった。
レオが目を細める。
「俺の話を聞く気になったか?」
「勘違いするな。お前が次にどんな馬鹿をやるのか、近くで見ておいた方が安全だと思っただけだ」
「それで十分だ」
ジェイデンは、振り返らずに面会室を出ていった。
レオは、椅子へ深くもたれた。
肩は痛い。
頬も腫れている。
最後のスマートフォンは砕けた。
富豪からは、まだ一ドルも引き出していない。
それでも、彼の瞳は、飢えた獣のように燃えていた。
何も持たない男が、命と最後の財産を賭けて、百二十万人の視線を奪った。
ならば、次は金だ。
「待ってろよ、ミスター」
レオは、誰もいない面会室で呟いた。
「次は、本当に俺へ賭けさせてやる」
