
誰にも言えないこと
ジェイデンからの返答が届いた時、ライアンは倉庫の裏にある非常階段へ座っていた。
名前は出さなくていい。
会う必要もない。
まずは、自分が怖いことと、必要な条件だけを書け。
安全が確認できるまで、こちらから姿を見せろとは言わない。
短い文章だった。
だが、ライアンは何度も読み返した。
向こうへ来いとは書いていない。
ボスを裏切れとも、証拠を渡せとも、仲間を連れて逃げろとも書いていない。
ただ、自分がどうしたいのかを書けと言っている。
「……そんなこと、書けるかよ」
小さく呟いた。
書いたところで、何が変わる。
顔も名前も出さずに参加できると言っても、本当に安全なのかは分からない。
誰かが端末を見れば終わりだ。どこかで情報が漏れれば、自分だけでなく家族まで狙われるかもしれない。
それでも、もう画面を閉じることはできなかった。
ライアンはGVSを開く。
昨日見つけた匿名のDRIVEには、さらに多くの応答が付いていた。
―――――― GVS ――――――
【▶ DRIVE】
ギャングを抜けても、生きて稼げる道を探します。
【+ SUPPORT】
自分はギャングに関わっています。粛清を受けずにGVSへ参加する方法を教えていただけませんか?
【届いている応答】
・顔や名前を出さずに、不安なことだけ共有したい
・家族に被害が出ない方法があるなら参加したい
・元の仲間を売らずに抜けられる条件を考えたい
・薬や銃以外で金になる活動が本当にあるのか確認したい
――――――――――――――
ライアンの指が震えた。
応答を書いた人間の中に、自分のグループの人間がいるのかは分からない。
けれど、少なくとも一人ではない。
薬を運ぶのが嫌な人間。
誰かを撃つのが怖い人間。
抜けた後の報復に怯えている人間。
それでも、別の道があるなら試したい人間。
画面の向こうに、そういう人間がいる。
ライアンは、入力欄へ指を置いた。
長い言葉は書けなかった。
ただ、自分にできることを考えた。
―――――― GVS 応答 ――――――
【▶ DRIVE】
活動へ参加する人が危険な場所へ近づかないように、知っている範囲で注意点を伝えます。
【+ SUPPORT】
身元を明かせない人には、情報を出しても特定されない方法を用意していただけませんか?
――――――――――――――
送信ボタンを押した。
胸の奥が一気に冷たくなった。
消したいと思った。なかったことにしたいと思った。
だが、同時に、何年ぶりか分からないほど深く息を吸えた。
自分は、まだ何も捨てていない。
ボスのもとを逃げてもいない。
銃を置いたわけでもない。
それでも初めて、自分のために一つだけ行動した。
「ライアン」
背後から声がした。
ライアンは反射的に画面を伏せた。
階段の下に、幹部のダリルが立っていた。
ボスの近くにいる男の一人で、若い連中の面倒を見ることも多かった。
「何してる」
「別に。煙草を吸ってただけです」
「火もついてねえぞ」
ライアンは何も答えられなかった。
ダリルは階段を上がり、隣へ座った。
しばらく沈黙が続く。
「……あの投稿、お前か?」
ライアンの体が固まった。
「何の話ですか」
「活動場所の注意点を伝えるってやつだ」
逃げられない。
ライアンは、ポケットの中で拳を握った。
「違うと言ったら?」
「そうか、と言って終わる」
「本当なら?」
ダリルは、前を向いたまま答えた。
「俺にも、同じ画面を見せろ」
ライアンは、ゆっくりと端末を取り出した。
もう戻れない奴ら
その夜、ジェイデンのもとへ、見たことのない応答が立て続けに届いた。
直接会いたいというものではない。
ボスの居場所を売るものでもない。
武器の場所や金の流れを暴露するものでもない。
もっと小さく、切実な内容だった。
―――――― GVS 応答 ――――――
【▶ DRIVE】
薬の運搬から離れた後に、収入を得られる活動を探します。
【+ SUPPORT】
顔を出さずに始められる活動があるなら、参加条件を教えていただけませんか?
――――――――――――――
―――――― GVS 応答 ――――――
【▶ DRIVE】
銃を持たずに暮らせる場所へ移る方法を考えます。
【+ SUPPORT】
家族を巻き込まずに離れたい人には、必要な安全条件を教えていただけませんか?
――――――――――――――
―――――― GVS 応答 ――――――
【▶ DRIVE】
これまで薬の販売に関わっていた人間でも、街の活動へ参加できる条件を確認します。
【+ SUPPORT】
過去を理由に排除されたくない人には、不安なことを教えていただけませんか?
――――――――――――――
「……来すぎだ」
ジェイデンは、端末を見ながら呟いた。
マリクたちが集まっている新しい部屋では、タイラーが次の曲の構成を考えている。
キーランは公開できる映像の候補を探し、マリクは匿名の音声へ返す言葉を悩んでいた。
そこへレオが入ってくる。
「何だ、その顔は。金が減ったのか?」
「向こう側からの応答が増えてる」
「最高じゃねえか」
「軽く言うな。最初は一人だった。だが今は、同じような要請が何件も来てる。誰が本物で、誰が罠かも分からねえ」
レオは端末を奪うように覗き込んだ。
「本物かどうかなんて、後で分かる。今重要なのは、あいつらがもうボスの側にいることを当然だと思ってないってことだ」
「だからこそ慎重にやる。こいつらが一斉に動いたら、向こうも黙ってねえ」
「黙らせる必要なんかねえ。叫ばせろ。暴れさせろ。誰が新しい道を邪魔してるのか、世界へ見せてやればいい」
「お前、本当に人の命を数字みたいに扱うよな」
ジェイデンの声が低くなる。
レオは、わずかに目を細めた。
「俺が怖がって止まれば、あいつらは安全に抜けられるのか?」
「そういう話じゃねえ」
「そういう話だ。ボスが怖いから一人ずつ隠れて逃がす? 何年かける気だ。何人がその間に薬を売って、撃たれて、消える?」
「ならどうする」
「全員に見せる。もう抜け道はある。金も来る。仲間もいる。ボスのために死ぬ必要はねえってな」
ジェイデンは返事をしなかった。
乱暴すぎる。
危険すぎる。
だが、レオが工場の前で配信を始めなければ、ここまで一気に声が届かなかったのも事実だった。
「……レオ」
タイラーが、二人の会話を止めるように声をかけた。
「この応答、曲にしていいと思うか?」
「どれだ」
タイラーが見せたのは、短い投稿だった。
抜けたいと言ったら、裏切り者になる。
でも、本当は誰も撃ちたくない。
俺は、銃を持たずに金を稼ぎたい。
レオは一度だけ読み、笑った。
「やれ。これを待ってた」
ジェイデンがすぐに口を挟む。
「本人の許可を取ってからだ。内容も場所も、向こうが特定される材料は全部消す」
「分かってるよ。お前は本当に細けえな」
「細かくなきゃ、人が死ぬんだよ」
レオは答えず、窓の外を見た。
「急げ。次に動くのは、向こうだ」
撃てなかった夜
ボス側の倉庫では、空気が完全に変わっていた。
工場への襲撃は、相手の機材を壊し、脅迫文まで残した。
本来なら、ジェイデン側の若者は怯えて散るはずだった。
だが、逆だった。
レオが配信を始めた。
ジェイデン側は活動をやめなかった。
そして、ボス側の若者が端末を隠すようになった。
「今夜、ジェイデンたちが別の場所に集まる」
ボスは、集まった男たちへ告げた。
「今度は機材を壊すだけじゃ済まさねえ。向こうへ参加しようとしてる奴がいるなら、見せしめにする」
ライアンは、目を伏せていた。
隣にはダリルがいる。
ダリルは何も言わない。
「動ける奴は前へ出ろ」
少しの沈黙。
以前なら、何人かがすぐに立っていた。
忠誠心があるからではない。立たなければ疑われるからだ。
しかし、その夜は誰も動かなかった。
「聞こえなかったのか?」
ボスの声が荒くなる。
ようやく、一人が前へ出た。
続いて二人。だが、その動きは重い。
「ダリル。お前も行け」
ボスが指名した。
ダリルは、静かに顔を上げた。
「何をしに行くんです」
「何?」
「ジェイデンを潰すのか。歌を作ってるガキを撃つのか。それとも、こっちを抜けたいと思ってる奴を見つけて殺すのか」
倉庫が静まり返った。
「お前……何を言ってる」
「目的を聞いてるんです。俺たちは、何のために死ぬんですか」
ボスの顔から血の気が引いた。
「ダリル。お前も、向こうに乗る気か」
「俺はまだ何も決めてない。ただ、薬を売るより金が出る場所があって、撃ち合わずに済む道があるなら、それを考えた奴まで裏切り者扱いするのは違うでしょう」
「黙れ!」
ボスがテーブルを殴った。
「俺がここまでお前らを守ってきた! 俺がいなけりゃ、お前らはとっくに食えずに死んでたんだぞ!」
ライアンは、思わずダリルを見た。
ダリルは驚かなかった。
その言葉を、何度も聞いてきた顔だった。
「だから、一生あなたのために死ななきゃならないんですか」
その瞬間、ボスの手が腰へ動いた。
倉庫内の全員が息を呑む。
だが、銃は抜かれなかった。
ボスも分かっていた。
ここでダリルを撃てば、残っている人間まで一斉に逃げる。
「……出ていけ」
ボスが絞り出すように言った。
「次に俺の前へ現れたら、敵として扱う」
ダリルは頷いた。
「分かりました」
「ダリル!」
ライアンが思わず声を上げた。
ダリルは振り返り、ほんの少しだけ首を横へ動かした。
今は動くな、という合図だった。
倉庫の扉が閉まる。
ボスは、残った男たちを睨みつけた。
「今夜は中止だ。だが、勘違いするな。俺は逃げる奴を許さねえ」
誰も答えなかった。
その夜、銃撃戦は起きなかった。
ジェイデン側は、襲撃が来ると見て場所を分散させ、若者たちを隠していた。
ボス側は、出発する前に内部で止まった。
武力抗争は始まりかけたまま、どちらも勝たず、どちらも倒れず、不気味な沈黙の中で途切れた。
十六人
翌朝、ボスは寝ていなかった。
机の上には、空になったグラスがいくつも並んでいる。
端末を開けば、レオの配信が流れてくる。街の若者たちが新しい曲を作り、匿名の声へ応答し、薬や銃以外で生きる方法を語っている。
何度消しても、別の画面に現れる。
どこを見ても、あの男の顔と声がある。
「ボス」
部下が、青ざめた顔で部屋へ入ってきた。
「何だ」
「人が……いません」
ボスは、ゆっくり顔を上げた。
「誰だ」
「ダリル。それから、ライアン。運搬のマーカスと、見張りをしていた三人。下の若い奴らも……」
「何人だ」
部下は、口を開くのをためらった。
「十六人です」
ボスは立ち上がった。
「ジェイデンか」
「分かりません。連絡はつきません。ただ、端末と荷物ごと消えています」
「ジェイデンが連れていったんだろ!」
「その……昨夜、GVS上に匿名の離脱要請が大量に出ています。誰が書いたのかは分かりませんが、逃げた連中も見ていた可能性があります」
ボスは、机を蹴り飛ばした。
グラスが床へ落ち、砕ける。
「ジェイデン……!」
怒鳴りかけて、声が止まった。
ジェイデンは、街の人間を知っている。
安全な抜け道を用意した。
確かに、裏切り者を逃がす役にはなっただろう。
だが、それだけなら、十六人が一晩で消えるはずがない。
ダリルのような幹部まで、自分へ逆らって去るはずがない。
あいつらは、ジェイデンに誘われたから消えたのではない。
見てしまったのだ。
薬を売らずに金を得る若者たちを。
自分の話を曲にして、誰かに認められる者たちを。
名前を出さずに抜けたいと声を上げ、それに応える人間がいる世界を。
その全てを、街の全員へ見せた男がいる。
ボスは、端末を掴んだ。
画面には、レオ・グラントが映っていた。
壊された工場の前で、銃を恐れず、敵側へ呼びかけていた男。
お前らは本当に、誰かの命令で死にたいのか?
ボスの手が震えた。
「……違う」
「ボス?」
「ジェイデンなんかじゃねえ」
部下が黙る。
「レオ・グラントだ」
ボスは、画面の中のレオを睨みつけた。
「あいつが、俺の人間に、俺なしでも生きられると思わせやがった」
端末を壁へ投げつける。
画面が砕けても、レオの声だけが短く流れ続けた。
「レオ・グラント……」
ボスの声は、怒りとも恐怖とも区別がつかなかった。
「あいつだけは、殺さなきゃならねえ」
