
忘れられる前に
面会室から戻された後も、レオは眠れなかった。
拘置室の壁に埋め込まれた小さな画面では、地雷被害地域のニュースが繰り返し流れている。
【地雷撤去・生活再建プロジェクト、本格始動】
【支援額は三億ドルを突破】
【新たなシビックヒーロー、現地支援の継続を表明】
最後の見出しが出るたび、レオの歯が軋んだ。
画面の中では、清潔な服を着た若い男が、穏やかな表情で語っている。
『今回の支援を、特定の英雄の功績で終わらせてはいけません。現地の人々が安全に暮らせるまで、透明で継続可能な活動としてつないでいく必要があります』
拍手。
称賛。
資金提供の申し出。
活動参加の要請。
まるで、地雷原に立ったのがあの男であるかのようだった。
「……継続可能、ね」
レオはベッドの端に座り、画面を睨んだ。
「俺が道をこじ開けた後で、安全な言葉だけ拾って英雄面かよ」
地雷原で仲間を騙したことは事実だった。
ノアが自分を見なくなったことも。
マヤが泣いていたことも。
エヴァが自分を殺人鬼と呼んだことも。
だが、それでも道は開いた。
地雷除去班が増えた。
物資が届いた。
学校再開の計画が動き始めた。
自分がやったことを、何も知らない安全な男に塗り替えられることだけは耐えられなかった。
画面が切り替わる。
【ノア氏、現在も活動休止。取材には応じず】
ノアの名前を見た瞬間、胸の奥に鈍いものが刺さった。
レオは、無意識に手を握る。
「……お前まで黙ってんじゃねえよ」
怒鳴ってくれればよかった。
訴えると言えばよかった。
テレビの前で自分を怪物だと断じてくれれば、まだ正面から笑い返せた。
しかし、ノアは何も言わなかった。
まるで、レオへ向ける言葉そのものを失ったように。
レオは舌打ちし、画面を消した。
「俺は、間違ってねえ」
誰に聞かせるでもなく言う。
「俺がいなきゃ、世界は見なかった」
それだけは、譲れなかった。
移送
翌日の午後。
拘置室の扉が開いた。
「レオ・グラント。移送だ」
警備員が二人、扉の前に立っている。
レオはベッドから顔を上げた。
「裁判所か?」
「詳細は移動後に説明される」
「ずいぶん不親切だな」
「立て」
レオは肩をすくめ、立ち上がった。
手首に拘束具がかけられる。
廊下を歩き、複数の扉を抜け、地下の車両通路へ連れて行かれる。
そこには、窓の小さな護送車が待っていた。
「地雷原じゃねえんだから、もう少し景色の見える車にしろよ」
返事はない。
車内へ押し込まれる。
正面には、無表情の警備担当者が二人座った。
車両が動き出す。
レオは、壁にもたれながら目を閉じた。
どこへ連れて行かれようと、状況は変わらない。
アメリカでは自分は犯罪者。
ヒーローズからは追放。
表では、もう次の英雄が活動を引き継ぎ始めている。
カマラの使者が言った言葉が、頭の中に残っていた。
神になりたいのなら、檻の中で忘れられてはいけません。
「……出せるなら出してみろって言ったが」
レオは小さく笑った。
「まさか本当に期待してるわけじゃねえぞ」
車両が、唐突に止まった。
揺れでレオの体が前へ傾く。
「何だ?」
警備担当者たちは答えない。
次の瞬間、車内の照明が消えた。
完全な暗闇。
レオは、反射的に背中を壁へつける。
「おい。今度は何の企画だ?」
数秒後、微かな非常灯が点いた。
正面に座っていたはずの警備担当者の一人が、帽子を外した。
その顔を見て、レオの目が細くなる。
「……お前」
地雷原で、レオたちを作業区域へ導いた専門家だった。
無精髭。
頬の傷。
誰かが死んでも顔色ひとつ変えず、作業指示を出し続けていた男。
「久しぶりだな、レオ・グラント」
「随分と趣味が悪い再会だな。俺を地雷原へ通した男が、今度は護送車の中か」
「お前が私を買ったつもりになっていた頃から、こうなる可能性は考えていた」
レオの表情が変わった。
「何だと?」
「金を受け取ったのは事実だ。お前の企画に協力したのも事実だ」
男は淡々と続けた。
「だが、私は最初から、お前を観察していた」
レオは鼻で笑った。
「カマラの犬か」
「監視者だ」
「似たようなもんだろ」
専門家は、レオの手首へ視線を落とした。
車内の奥で、小さな音がした。
拘束具が外れる。
レオは自由になった手首を見た。
「おいおい。本当にやる気か」
「選択はお前にある」
「選択?」
「この先へ進めば、アメリカの管理下から外れる。お前は脱走者になる。犯罪者としてだけでなく、逃亡者として追われる」
男は、閉ざされた後部扉へ目を向けた。
「ここに残れば、移送の混乱中に発見された被拘束者として扱われる可能性もある。裁判を受け、いつか許可された範囲で活動できる日を待つこともできる」
レオは、しばらく黙っていた。
「カマラは、俺が逃げると思ってるのか?」
「カマラは、お前が檻の中で別の英雄に置き換えられることへ耐えられない男だと見ている」
レオの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「随分、人を分かってるじゃねえか」
「違うか?」
レオは、壁の小さな画面へ目を向けた。
画面は暗い。
だが、そこに先ほど見た若い英雄の顔が浮かぶ気がした。
安全で。
誠実で。
誰も裏切らず。
自分が血を流して開いた道の続きを、当然のように引き受けていく男。
その男が称賛されるたび、世界からレオの名前が少しずつ削られていく。
レオは立ち上がった。
「案内しろ」
「本当にいいのか」
「俺を誰だと思ってる」
専門家が、初めてわずかに笑った。
「カマラの見立ては正しかったようだ」
「勘違いすんな。俺はカマラのために行くんじゃねえ」
「では、何のためだ」
「俺がまだ終わってねえと、世界に思い出させるためだ」
扉が開いた。
外から、眩しい光が差し込む。
レオは、拘束具を床へ投げ捨てた。
「神の子を檻に入れたまま、新しい英雄を作れると思うなよ」
消えたレオ
その夜。
シビックヒーローズの拠点に、緊急連絡が入った。
マヤは、ノアの休養状況について支援スタッフと話していた。
ジェイデンは、別室で一人、サンドバッグを殴っていた。
エヴァは、地雷撤去ドッキリに関する記録を法務担当へ送っている最中だった。
端末が、鋭い警告音を鳴らす。
【緊急通知】
【レオ・グラント移送中に行方不明】
【外部協力者による逃亡支援の疑い】
【所在確認中】
マヤの手から端末が落ちた。
「……嘘」
ジェイデンが部屋へ駆け込んでくる。
「何だ、その通知は」
エヴァは、画面を確認した瞬間、顔を強張らせた。
「逃げたのよ」
「は?」
「レオが逃げた」
ジェイデンは、数秒間何も言えなかった。
やがて、壁を殴る。
「ふざけんな……!」
「誰かが手引きした。地雷被害地域とつながる人物の可能性がある」
「現地の連中が、あいつを英雄扱いしてたからか?」
「可能性は高いわ」
マヤは、青ざめた顔でノアのいる部屋を見た。
「ノアには……」
「伝えないわけにはいかない」
エヴァが言った。
「彼は知らなければならない」
その時、部屋の扉がゆっくり開いた。
ノアが立っていた。
顔色はまだ悪い。
だが、通知音を聞いて出てきたのだろう。
「レオさんが……どうしたんですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
ノアの視線が、机の上の画面へ向く。
【LEO GRANT:MISSING】
その文字を見た瞬間、ノアの瞳が揺れた。
「逃げたんですか」
「おそらく、現地側の誰かが手を貸した」
エヴァが答える。
「地雷被害地域で生まれた支持者か、あるいはもっと組織的な人物よ」
「……なぜ」
ノアの声がかすれる。
「なぜ、レオさんを助けるんですか」
ジェイデンが吐き捨てる。
「あいつが現地じゃ英雄だからだろ。俺たちを地雷原へ放り込んだことより、道を開いたことの方が大きいと思ってる連中がいる」
「でも……」
ノアは、言葉を失った。
マヤが近づこうとする。
「ノア、あなたは休んでいた方が――」
「レオさんは、また活動するつもりなんですか」
「分からないわ」
マヤは答えた。
だが、エヴァは違った。
「活動するでしょうね」
「エヴァ」
「あの男が逃げた理由なんて一つしかない。檻の中で忘れられることに耐えられなかったのよ」
エヴァは画面を閉じた。
「今度は地雷よりひどい場所で、もっと大きな何かを始める」
ノアは、うつむいた。
レオを許せない。
自分を映像として利用したことも、地雷原へ置き去りにしたことも、忘れることなどできない。
それでも。
レオが一人で、どこかの地獄へ向かっている。
その事実だけで、胸の奥が痛んだ。
「……レオさん」
ノアは、小さく呟いた。
マヤは、その声に気づいた。
エヴァも気づいた。
ノアの声にあったのは、憎しみだけではなかった。
本物の地獄
レオが次に目を覚ました時、外はすでに夜だった。
小型の輸送機が、暗い空を飛んでいる。
窓の下には、街の灯りではなく、ところどころに燃える炎が見えた。
火事ではない。
砲撃か。
焼かれた村か。
あるいは、今も続いている戦闘の跡か。
「ずいぶん景気の悪い場所だな」
レオが言う。
正面に座る専門家は、銃も向けず、ただ窓の外を見ていた。
「地雷被害地域など、まだ入口にすぎない」
「大げさだな」
「お前は、地面の下に残った戦争を見た」
男は、レオへ視線を向ける。
「これから見るのは、まだ生きて動いている戦争だ」
輸送機が高度を下げる。
暗い滑走路のような場所に、数人の男が待っていた。
その中心に、一人だけ、武器を持たずに立っている男がいる。
背は高くない。
派手な服装でもない。
だが、周囲の空気は明らかにその男を中心に張りつめていた。
輸送機が着陸する。
扉が開く。
乾いた夜風と、遠くの煙の匂いが入ってくる。
レオは、ゆっくりと機外へ降りた。
待っていた男が、一歩前へ出る。
「レオ・グラント」
「お前がカマラか」
「イブラヒム・カマラだ」
カマラは、レオへ手を差し出さなかった。
歓迎の笑顔もない。
英雄を見る興奮もない。
ただ、品定めするようにレオを見ていた。
「お前の国では、随分と騒がれているようだな」
「見てたのか」
「ああ。仲間を騙して地雷原へ放り込み、世界から二億ドル以上を引き出した男だ。見ない理由がない」
レオは、少し笑った。
「軽蔑したか?」
「当然だ」
即答だった。
レオの笑みが、一瞬止まる。
「お前は最低の男だ。仲間の信頼を使い、若い少年の恐怖を配信し、自分の神話へ変えた。私なら、お前の仲間にはなりたくない」
「……面白えな。だったら何で俺を出した」
「使えるからだ」
カマラの声には、迷いがなかった。
「我々の土地では、人が死んでも世界は振り向かない。村が焼かれても、子供が兵士にされても、援助が奪われても、ニュースは数日で終わる」
カマラは、遠くの暗闇へ目を向けた。
その先で、赤い火が揺れている。
「だが、お前が立てば世界は見る。お前が叫べば金が動く。お前が仲間を裏切ってでも前へ進めば、世界は嫌悪しながら目を逸らせなくなる」
「褒めてんのか?」
「評価しているだけだ」
カマラは、レオへ歩み寄った。
「ここには、お前が地雷原で見たものより、はるかに醜い現実がある。善人の言葉では足りない。安全な英雄では届かない。世界へ地獄を突きつけ、金と人間を引きずり込める怪物が必要だ」
レオは、遠くの火を見た。
アメリカでは、犯罪者。
ヒーローズからは、裏切り者。
ノアからは、もう言葉すらもらえなかった。
だが、ここでは違う。
この男は、自分の最悪な部分を知ったうえで、それでも必要だと言っている。
「俺に何をさせる」
カマラは、初めて薄く笑った。
「まずは見ろ」
「何をだ」
「お前が英雄になりたがっている世界の、本当の値段をだ」
レオは笑い返した。
「いいぜ」
その瞳に、再び熱が宿る。
「俺が必要だってんなら、見せてやるよ」
カマラは踵を返した。
夜の向こうに、武装車両が並んでいる。
遠くでは、まだ炎が消えていない。
「ついて来い、レオ・グラント」
カマラは言った。
「ここから先は、カメラの前で爆発を見せれば終わる舞台ではない」
レオは、血の痕が残る額を指でなぞった。
「望むところだ」
地雷原で仲間を生贄にし、牢獄から逃げ出した神の子は、ついに本物の戦場へ足を踏み入れた。
そこにノアたちの姿はない。
今のレオには、それでよかった。
自分を見捨てた世界へ、もう一度、自分こそが必要だと証明する。
その欲望だけが、彼の足を前へ進ませていた。
