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シビックヒーローズ 第三十七話 世界の選択

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降りたはずの女

「リン氏」

 スイス政府側の代表が、静かに言った。

「あなたは、レオ・グラント担当を降りたはずでは?」

 エヴァ・リンは、すぐには答えなかった。

 その通りだった。

 自分は降りた。
 あの地雷原の日に。

 レオ・グラントは、越えてはいけない線を越えた。

 仲間を騙し、死地へ連れ込み、恐怖すらコンテンツに変えようとした。
 あれは英雄ではない。
 少なくとも、エヴァの知る意味での英雄ではなかった。

 あの日から、彼女の中には怒りが残っている。

 裏切られたという怒り。
 利用されたという怒り。
 そして、自分があの男を見誤ったという怒り。

 だが、それだけではなかった。

 エヴァは、どうしても忘れられない光景があった。

 レオが群衆の前で叫んだ時のことだ。

 端末を手に取れ。

 ただ、その一言だった。

 それだけで、人々は端末を握った。
 見ていただけの者たちが、資金を出し、情報を出し、仕事を作り、GVSのネットワークへ雪崩れ込んだ。

 ギャングの若者たちが動き、富豪が金庫を開け、政治家が発言を変え、メディアが彼を追いかけた。

 あの日、エヴァは確かに見た。

 神を見た。

 もちろん、それは清らかな神ではない。
 慈悲深い神でもない。
 むしろ、ひどく俗っぽく、傲慢で、危険で、血と再生数の匂いがする神だった。

 それでも、世界は動いた。

 今も同じだ。

 自分が好むかどうかなど、関係なかった。
 自分が許すかどうかなど、関係なかった。

 政府が眉をひそめても、軍が危険視しても、支援者が涙を流しても、反対者が怒鳴っても、世界はレオ・グラントを中心に渦を巻いている。

 その渦の中で、ジェイデンは非合法にヘリを飛ばした。
 ノアは金爆弾協定を書いた。
 マヤは米国の群衆をGVSへ流そうとしている。
 カマラは敵味方の境界に立っている。

 そして、物資を奪った部隊が、交戦停止の要請を出した。

 エヴァは、そこでようやく口を開いた。

「ええ。降りました」

 代表が目を細める。

「では、なぜこの場にいるのですか」

「降りたからです」

「どういう意味ですか」

「私は、彼の信者ではありません」
「彼を許したわけでもありません」
「今でも、あの男は危険だと思っています」

 エヴァは、自分の端末を机の上へ置いた。

「ですが、世界はもう彼を無視できない」
「私が好むかどうかではなく、彼の言葉で人と金と怒りが動いている」
「ならば、誰かがその流れを協定に入れなければならない」

 代表は黙っていた。

 エヴァは続けた。

「私はレオ・グラントの担当に戻ったのではありません」
「彼の暴走が生み出した現象を、政府が扱える形に変えるために来ました」

 少しだけ間を置く。

「それに」

 エヴァは、画面に映る金爆弾協定案を見た。

「私は、あの日見てしまったんです」
「あの男が一言で、人々を端末へ向かわせるところを」
「神を見た、と言えば、あなた方は笑うでしょう」
「でも、政治も市場も群衆も、時にはそういうものに動かされる」

 彼女は顔を上げた。

「だから、あの火を放置するわけにはいきません」
「消せないなら、炉を作るしかない」

 会議室は静まり返った。

 その沈黙を破るように、米国側の回線から声が入った。

「リン氏。あなた方は、我々に何を求めている」

 エヴァは、一拍置いて答えた。

「洋上人道輸送拠点です」

洋上人道輸送拠点

「具体的には?」

 米国側の声が低くなる。

「空母、強襲揚陸艦、大型補給艦。あるいは同等の機能を持つ艦船」
「ヘリの燃料、整備、物資積み替え、医療搬送、通信管制を行える拠点が必要です」

 空気が変わった。

「それは軍事介入だ」

「違います」

 エヴァは即答した。

「戦闘機による制圧ではありません」
「地上部隊の投入でもありません」
「兵器も戦闘員も運ばない」
「運ぶのは食料、水、医薬品、通信端末」
「積載物、投下地点、協定条件はGVSで記録する」

 エヴァは端末を操作した。

 画面に短いGVS表示が映る。

―――――― GVS 人道空輸条件 ――――――

【DRIVE】

食料と医療品を運ぶ。
兵器は運ばない。
すべて記録する。

【SUPPORT】

ヘリを撃たない。
物資を奪い合わない。
必要な人数を伝える。

――――――――――――――

「これが骨子です」

 エヴァは言った。

「これは軍事介入ではありません」
「非合法な人道輸送を、協定下に置くための管理措置です」

「敵対勢力にも投下するのだろう」

「はい」

「それを人道輸送と言い張るのか」

 エヴァは、今度は少しだけ目を細めた。

「敵対勢力の支配地域には、民間人も、負傷者も、兵士の家族もいます」
「現場の兵士の多くは、食料と安全のために戦っている」
「彼らの家族へ食料が届けば、兵士は司令官だけに従う必要がなくなる」
「負傷者が治療されれば、部隊は交戦停止を選びやすくなる」
「通信端末が届けば、銃ではなく要請を出せる」

 米国側の男が言った。

「理屈は分かる」
「だが、失敗すれば?」

「失敗します」

 エヴァは淡々と答えた。

 会議室が静まる。

「すべてが成功することはありません」
「物資は奪われる。協定は破られる。レオ・グラントは余計なことを言う。非合法便も出る」
「だからこそ、記録と条件が必要です」
「失敗をなくすのではなく、失敗を次の協定条件へ変える」
「それがGVSです」

スイスと北欧

 次の画面には、スイスと北欧諸国の代表者が映っていた。

 共同声明案が表示される。

 文面は長くない。

 民間人と負傷者のための人道空輸を支持すること。
 兵器と戦闘員は運ばないこと。
 積載物と投下条件はGVSで記録すること。
 現地勢力へ、人道輸送への不攻撃を求めること。

 米国側の表情がわずかに変わる。

「スイスと北欧は、すでにここまで出すのか」

「はい」

 エヴァは答えた。

「彼らは、これをレオ・グラント個人の暴走ではなく、記録可能な人道輸送協定として扱う用意があります」

「君は、我々にも署名しろと言っているのか」

「いいえ」

 エヴァは首を振った。

「最初から署名しろとは言いません」
「まず、制限を一部見直してください」
「非合法便を合法協定へ切り替える窓口を作る」
「洋上拠点の使用について、人道目的に限定した検討を始める」
「それだけで十分です」

 米国側の男が、長く息を吐いた。

「君たちは、レオ・グラントを利用しているのか」

「逆です」

 エヴァは言った。

「レオ・グラントを、協定に閉じ込めようとしています」

 その言葉に、会議室の誰かが苦笑した。

「彼が閉じ込められると思うのか」

「思いません」

 エヴァは、少しだけ笑った。

「だから、彼の周りに協定を作ります」
「彼自身は火です」
「火を消せないなら、炉を作るしかない」

米国の選択

 会議は、長く続いた。

 軍事介入ではないのか。
 武装勢力への利益供与ではないのか。
 国内世論を刺激しすぎないか。
 撃墜された場合、誰が責任を取るのか。
 現地政府の許可はどうするのか。
 敵対勢力が物資を独占した場合はどうするのか。

 エヴァは、一つずつ答えた。

 すべてに完璧な答えがあるわけではない。
 それでも、代替案はもっと悪かった。

 制限を強めれば、非合法便が増える。
 放置すれば、レオが勝手に燃やす。
 ならば、協定へ入れるしかない。

 最後に、米国側の代表が言った。

「一部制限の見直しを検討する」

 エヴァは表情を変えなかった。

「ありがとうございます」

「ただし、条件がある」

「どうぞ」

「兵器輸送は禁止」
「戦闘員輸送は禁止」
「積載物と投下地点は記録」
「敵対勢力への継続投下は、交戦停止と配布記録が条件」
「米国籍の民間機は、勝手に飛ばせない」
「非合法便の追随を止めるため、GVS協定への登録窓口を設ける」

「妥当です」

「そして、レオ・グラント本人の扱いは別問題だ」

 エヴァは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。

「分かっています」

「彼は帰国後、事情聴取を受ける」

「でしょうね」

「場合によっては、訴追もある」

「それも想定しています」

 代表は言った。

「君は冷静だな」

「冷静でなければ、彼のそばにはいられません」

 エヴァは立ち上がった。

「ですが、一つだけ言っておきます」
「レオ・グラントを裁くなら、金爆弾協定を成立させた後にしてください」
「彼を今止めれば、協定も、非合法便の制御も、現地の要請も、すべて崩れます」

 代表は答えなかった。

 エヴァは会議室を出た。

火を炉に入れる

 廊下へ出ると、ノアから通信が入った。

【ノア】
どうでしたか。

「一部制限の見直し。協定登録窓口。洋上拠点の検討」
「完全な承認ではないけれど、十分です」

【ノア】
さすがです。

「褒めるなら、正式文書が出てからにして」

【ノア】
レオさんへ伝えますか。

 エヴァは少し黙った。

「伝えなくていいわ」

【ノア】
なぜですか。

「どうせ調子に乗るから」

 ノアは、少しだけ笑ったようだった。

【ノア】
分かりました。

 通信が切れる。

 エヴァは、ガラスの向こうに見える街を見下ろした。

 遠くでは、まだデモの声が聞こえている。

 USA。
 レオを助けろ。
 政府は制限を取り消せ。

 その熱狂を、マヤが受け止めている。
 現地では、ノアが協定を作っている。
 カマラが敵と住民の間に立っている。
 ジェイデンが非合法の一便を飛ばした。
 レオは、おそらくどこかで余計なことをしている。

 エヴァは、小さく息を吐いた。

「火を炉に入れる、か」

 自分で言った言葉を、もう一度つぶやく。

 火は、世界を暖める。
 だが、放っておけばすべてを焼く。

 レオ・グラントという火を、どこまで炉の中に収められるのか。

 エヴァにも分からなかった。

 ただ一つ、分かっていることがある。

 この火は、もう消せない。

 ならば、燃やす場所を作るしかない。

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