『人を助けるすんごい仕組み――ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか』(西條剛央 著)を読んで思ったことをまとめていきます。
といっても、私の読書の仕方は少し特殊です。本の内容をそのまま要約して楽しむことも一応は目的に含まれていますが、何よりも「何かをひらめく」ことが最大の目的です。
そのため今回も、本の内容そのものにはほとんど触れません。むしろ、そこから着想を得て飛躍した議論になっていることをご理解いただければと思います。
今回は以下の4つのテーマに沿って、「合論型投票システム(GVS)」と現代社会の課題について考察していきます:
- なぜ行政は対応が遅いのかといったテーマとGVSによる解決方法
- SNS発展後の社会の変化とGVSとの比較
- 官僚制の是非と投資教との関係
- デモクラシーとシビックドライブの違い
なぜ行政は遅いのか?そして、GVSが変える未来
災害時や問題発覚時、「なぜこんなに対応が遅いのか」と感じたことがある人は多いでしょう。
その理由の一つは、「行政は責任を取りたくないから」です。
日本の行政職員、特に官僚にとっては、「前例のない行動」や「責任の所在が曖昧な判断」は極力避ける対象です。
なぜなら、それが評価・昇進に直結し、最悪の場合には命の危険にすら繋がるからです。
過去には、政治的な責任を問われ自殺した高級官僚も存在します。
つまり、官僚たちは合理的に「動かない」という判断をしているのです。
なぜ責任を取りたがらないのか?
行政組織では「前例主義」と「上からの命令」に従うことが安全策とされています。
この文化の中で、主体的に判断することはリスクでしかありません。結果、「何もしないこと」がもっとも合理的になる。
さらに悪いことに、これは一部の役人の問題ではなく、制度構造の問題です。
評価制度、昇進ルート、天下り、メディア対応、訴訟リスク……あらゆる要因が「動かないこと」を促しています。
本来の責任は誰にあるのか?
行政は本来、市民の代理でしかありません。
したがって、最終的な責任は「市民」にあるはずです。
ところが現実には、行政に権限だけが集中し、市民は命令される側になっています。
それどころか、強制徴税によって無理やり金を取り上げられ、その金が何に使われるかも選べない。
つまり、市民が支配者であるはずなのに、実際には“従属者”として扱われているという矛盾が存在しています。
GVSはこの矛盾をどう解決するのか?
合論型投票システム(GVS)は、この矛盾を根本から変える仕組みです。
- 市民が議題を立てて議論し、
- 多段階の合意形成を経て、
- 結論を出し、
- 必要であれば自ら財源まで用意する。
行政はその結論を実行するだけ。つまり、責任は「市民自身」に明確に返ってきます。つまり行政は責任追わずに政策を実行できるわけです。
では市民の判断が間違っていたらどうするのか?という話ですが、間違っているかどうかというよりも市民の合意の方がはるかに大事だと私は思っています。
みんなが納得しているとしたら間違っていたとしても、それを楽しむこともできるし、進む勇気も持てます。
また、本当に間違っているかどうかというのは誰にも分かりません。GVSではトークテーマによって絶えず合論を行い、しかも世界中から参加者が集まります。
人類の英知がその物事に対して有効でないという場合もありえるでしょうが、GVSは人類の無限進化を促すのでいつかは解決に導くと私は信じています。
SNSの進化では変わらなかった現実
「SNSによって市民の声が可視化された」とよく言われます。
たしかにTwitterやFacebookは、行政の不正や理不尽にスポットを当てる役割を果たしました。
しかし、可視化された「市民の声」はあっても、
制度を動かす力はなかった。
単なる「怒り」や「運動」では体制は動かせない。
そのため、SNS時代になっても、行政の本質的な構造は変わっていないのです。
官僚制度の是非と投資教の関係
官僚制度は本質的に腐敗しやすく、「主導権を奪われた市民」を量産します。
小室直樹の指摘を借りれば、「官僚制度を一掃しない限り、体制は変わらない」とすら言えるでしょう。
とはいえ、全否定すべきではありません。
軍事・外交・災害時などにおいては、迅速な指揮命令系統が必要です。
重要なのは、市民が「使うべきときに使う」と決められること。
これを制度として可能にするのがGVSであり、これはまさに「投資教」が構想する自発的秩序のモデルでもあります。
デモクラシーからシビックドライブへ
これまでの民主主義は、「代表者を選ぶ」だけでした。
その代表が暴走しても、次の選挙まで手出しできない。
一方、GVSでは、市民が直接「この町にゴミ処理場をつくる/つくらない」「この政策に投資する/しない」と意思を示すことができる。
これは「政治を動かすドライバーが市民に戻ってくる」という意味で、“シビックドライブ”=市民主導の社会運営と呼べるでしょう。
終わりに:GVSがもたらす未来
- 市民が議論し、自ら責任を負いながら意思決定する。
- 官僚制は必要最小限にとどめられ、実行部隊に徹する。
- 投資や寄付を通じて、自発的に財源を用意できる。
- 世界中どこでも、誰でも、参加できる。
こうした未来が、合論型投票システム(GVS)によって現実になります。
SNSで世界は変わったのか?
FacebookやTwitterといったSNSの登場により、メディアや国家の検閲を通さずに、一市民の声が世界中に発信される時代が到来しました。無名の個人の意見や経験が社会に大きな影響を与える事例は、今や枚挙にいとまがありません。
たとえば日本では、電通社員の過労死事件がSNSで拡散され、世論形成につながったことがあります。世界的にも、#MeToo運動やブラック・ライブズ・マター(BLM)は、SNSがなければここまでの広がりを見せることはなかったでしょう。
なかでも象徴的なのが「アラブの春」です。FacebookやTwitterを通じて市民が結集し、独裁政権を打倒したこの一連の運動は、「SNS革命」とまで呼ばれました。国境を越えて連帯が生まれ、情報統制の厳しい国ですら外からの支援の目が届くようになったのです。
日本でも、SNS上で選挙やデモ、署名運動の呼びかけが活発になりつつあります。たとえば最近では「財務省の解体」というテーマがSNS上で大きな話題となりました。いまのまま行けば、日本でも実力行使が現実になるのではないか――そう感じる人もいるでしょう。
たしかに、SNSの登場によって「世界は変わった」と言えるかもしれません。市民の声がグローバルに発信され、共感と支援を集める力を持ったのは間違いありません。
しかし、同時に多くの人がこうも感じているのではないでしょうか。
「それでも社会は、大して変わっていないのでは?」
SNSは、国家に対する市民の怒りや不満を可視化し、暴力的な行動の引き金にもなりえます。それは一見して危険にも思えますが、実は民主主義の本質とも言えます。国家が憲法を守らず、国民の権利を踏みにじるのであれば、たとえ暴力的手段であっても抵抗する権利があるというのが、近代民主主義の基本的な考え方です。
日本政府が憲法に反して増税を続け、国民の財産を守ろうとしない現状は、まさにこの「抵抗権」が問われる状況かもしれません。
ただ、暴力による変革は多くの犠牲を伴い、誰もが心の底ではそれを望んでいないでしょう。本当に人を動かすのは、「言葉」であるはずです。だからこそ、「言葉によって国家を変える」という思想と仕組みが必要になります。
投資教とGVS:言葉と資本で社会を変える
SNS時代になっても、なぜ人々は投票によって社会を変えようとしないのでしょうか?
それは、「誰に投票しても同じ」という深い諦めがあるからです。
日本は官僚支配、アメリカは資本家支配、中国は共産党独裁。いずれも形式上は民主主義を標榜しつつも、実質的には独裁構造が強固に根づいています。こうした構造を打破するには、従来は武力しか方法がありませんでした。
しかし、「投資教」と「GVS(合論型投票システム)」があれば、暴力を用いずに制度そのものを変革できます。
GVSは、匿名の一意見ではなく、多数の市民による合意形成を通じて意見を発信するための仕組みです。国籍の壁を越えれば、それは世界市民の総意となりうるのです。
たとえば、10億人が参加して「この政策に反対だ」と声を上げたとすれば、それは国家に対して圧倒的な「言葉の力」として作用します。しかも、投資教ではその意思表示に加え、「投資」や「政治献金」を通じて直接的な資金提供も行います。
たとえば「政治献金が税収の2倍になったら、その分だけ減税してほしい」といった提案をGVSで議論・決定し、それを実現できる議員を支援する。こうして、市民は税金という“強制的な支出”から解放され、自発的な支援によって政治を運営することが可能になります。
これは国家にとっても得策です。財政は潤い、国民は納得し、グローバルな信頼を得た国が新時代の主役になるでしょう。
SNSとGVSの違い
世界市民による非暴力の社会変革
このように、GVSは世界中の市民の声を束ね、「言論の圧力」として機能します。そして投資教は「資本の力」によって企業や政府に影響を与える手段を提供します。
暴力ではなく、言葉と資本で社会を変える。この2つの仕組みが組み合わさったとき、私たちはようやく、人類の長い歴史における「暴力による体制転覆」という常識を手放すことができるのです。
投資と投票――それは、民主主義国家の市民にだけ許された、計り知れないほど強大な力です。
資本主義が私有財産を守り、民主主義が言論を守る。その二つを武器に、市民は企業も国家も買収することができます。そして、それによって「資本の論理」ではなく「人間の論理」による社会が実現するのです。
それこそが、本来あるべき“普通の暮らし”であり、現状こそが異常なのだ――私はそう考えています。